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聚楽第行幸記
今上皇帝、〈◯後陽成〉十六歳にして御位に即せ給ふ、百官巾子お傾け、万民掌お合せずといふものなし、寔君臣合体時お得たり、異朝においては、成王の為に周公旦摂政し、本朝にては清和の為に忠仁公執柄し給ふ、符お合するがごとし、延喜〈◯醍醐〉天暦〈◯村上〉の政も、又おほく譲らず、援において行幸あるべしとて、聚楽と号して里第おかまへ、四方三千歩の石のついがき山のごとし、楼門のかためは、鉄のはしら鉄の扉、瑶閣星お摘て高く、瓊殿天に連てそびえたり、甍のかざり、瓦の縫めには、玉虎風にうそぶき、金竜雲に吟ず、儲の御所は檜皮葺なり、御はしのまに御輿よせあり、庭上に舞台左右の楽屋おたてらる、後宮の局々に至迄、百工心おくだき、丹青手おつくす、その美麗あげていふべからず、抑そのかみの行幸いくたびといふことおしらず、この度は北山殿〈◯足利義満〉応永十五年、室町殿〈◯足利義教〉永享九年の行幸の例とぞきこえける、鳳輦牛車、そのほかの諸役以下事も、久しく廃れたる事なればおぼつかなしといへども、民部卿法印玄以奉行として、諸家のふるき記録故実など尋さぐり相勤らる、かヽる大切に財おおしむべきにあらず、昔の行幸に増倍して馳走すべしとて、諸役者に仰て即時に調進せしむ、大器は晩成といへる事はゆえなきに似たり、さて良辰おえらび、三月〈◯天正十六年〉中旬と聞しが、当年は五月に閏あるによてや、三春厳冬のごとくにして、余寒ことに甚し、されば四月十四日までさしのべらる、其日になりぬれば、殿下〈◯豊臣秀吉〉とく参り給て、奉行職事おめして、剋限午時以前のよしいそがせ給ふ、かねてよりみなまふけの御所の御気おうかヾふによりて、衛府の倫弓箭おたいし、上達部以下まいりつどふ、御殿御留守の事など、たれ〳〵と仰さだめらる、奉行事具したるよし奏すれば、南殿に出御あり、御束帯、御衣は山鳩色也、御殿よりながはし御後まで筵道ふたんおしく、殿下御裾お取給ふ、陰陽頭反閉おつとむ、闈司の奏、鈴奏も例のごとし、殿下笏おならして勅答のよしお告給ふ、御剣将中山頭中将慶親朝臣、御草鞋万里小路頭弁充房朝臣、次に鳳輦お御階のまによせて、左右の大将御綱以下例のごとくつとめらる、さて四足の門お北へ、正親町お西へ、聚楽第まで十四五町、その間の辻かため六千余人也、先えぼしきの侍おわたして、国母の准后〈◯新上東門院藤原晴子〉と女御の御輿おはじめ、大典侍御局、勾当御局、其外女中衆御こし三十丁余、皆した簾あり、御こしぞへ百余人、御供の人人、わらはすがたなどさすがにおぼえて花やかなり、其跡に少引さがりて、ぬり輿十四五丁あり、六宮御方、伏見殿、九条殿、一条殿、二条殿、其外菊亭右大臣晴季公、徳大寺前内大臣公維公、飛鳥井前大納言雅春卿、四辻前大納言公遠卿、勧修寺大納言晴豊卿、中山大納言親綱卿、大炊御門前大納言経頼卿、伯三位雅朝王、此御衆にて侍とぞ、〈◯中略〉次日は公卿とく参り給て、早朝し給しとなり、儲の御所には、かねては三日の行幸とさだめられしかども、余に御残おほし、せめて五日とヾめ奉るべし、然はかヽるめでたき御代にあひたてまつること、天のゆるせる道にや、此たびの行幸、後のためしにもとおぼしめし、朝廷いよ〳〵さかゆくべき御ねがひなり、それについて、禁中正税の為に(○○○○○○○)、洛中の地子悉末代進(○○○○○○○○○)献之(○○)し給ふ(○○○)、其御状詞、
就今度聚楽行幸、京中銀子地子五千五百三十両余、為禁裏御料所奉進上之、并米地子八百石、内三百石院御所へ進上之、五百石為関白領、六宮へ進之、洛中地子米銀子、不残奉進献之了、次諸公家諸門跡、於近江国高島郡八千石、以別紙之朱印、令配分之、自然於無奉公輩者、為叡慮被相計之、可被仰付忠勤之族之状如件、
  天正十六年四月十五日                秀吉
                  菊亭殿
                  勧修寺殿
                  中山殿
殿下つら〳〵行末の事など工夫しましますに、隻今雲上になしおかるヽ人々は、皆殿下の恩恵浅からず、掛巻くも忝き殿上の交お免され、此行幸にあひ奉るものかなと感悦する輩あり、子々孫々に至ては、若し此薫徳お忘れ、無道の事もやあらんとおぼし召て、あらたに昇殿ありし人々、尾州の内府、〈◯織田信雄〉駿州の大納言〈◯徳川家康〉お始め、皆禁中へ対し奉り、誓紙おしてあげらるヽにおいては、悦おぼしめさるべき由なり、其かみ皆人の遺言おなす事、其末期に臨みて、領知財宝お譲る事のみなり、我世さかんなるおりに、領知財寳おそなへ参らするこそ、誠の心ざしにてはあらめと宣ふお聞て、満座感涙お催し侍りぬ、各猶とて則誓紙おかヽせ給ふ、其詞雲、
 敬白 起請
一就今度聚楽第行幸、被仰出之趣、誠以難有催感涙事、
一禁裏御料所地子以下、并公卿門跡衆所々知行等、若無道之族於有之者、為各堅加意見、当分之儀不及申、子々孫々無異儀之様可申置事、
一関白殿被仰聴之趣、於何篇聊不可申違背事、〈◯中略〉
さて今日は和歌の御会と定められつれども、御逗留の間翌日迄さしのべ給ふ、〈◯中略〉 三日目、〈十六日◯中略〉けふの和歌の御会、おりにあひて猶殊勝となん、〈◯中略〉 四日目、〈十七日〉舞御覧、〈◯中略〉 五日目、〈十八日〉還幸也、殿下参り給て、献々御祝事ともあり、やがて又行幸御申さたあるべき御あらましなど、こまやかに契らせ給ひ、午刻ばかりに鳳輦およせさせ給ひて、行幸の日の如く、前駈より次第次第に沓おひき、馬上には轡つらお勒し、御心閑なる還幸なり、