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増鏡
十五村時雨
まづ六波羅お御かうじあるべしとて、かねてより宣旨にしたがへりしつはものどもおしのびてめす、〈◯中略〉つヽむとすれど事ひろくなりにければ、武家にもはやうもれ聞て、さにこそあなれとよういす、まづ九重おきびしくかため申べしなどさだめけり、かくいふは元弘元年八月廿四日なり、雑務の日なれば、記録所におはしまして、人の争ひ愁る事どもお行ひ暮させ給ひて、人々もまかで、君も本殿にしばし打休ませ給へるに、今夜既に武士共きほひ参るべしと忍て奏する人ありければ、取あへず雲の上お出させ給ふ、中宮の御方へ渡らせ給ても、しめやかにもあらずいとあわたヾし、兼ておぼしまうけぬにはあらね共、事のさかさまなる様になりぬれば、万うき〳〵と我も人もあきれいたりて、内侍所神璽寳剣計おぞ忍びていて渡らせ給ふ、上はなよらかなる御直衣奉り、北の対よりやつれたる女車の様にて忍び出させ給ふ、〈◯中略〉日比の御用意には、先六波羅お攻られん紛に山へ行幸ありて、かしこへ兵共おめして、山の衆徒おも相具し、君の御かためとせらるべしと定られければ、彼法親王達〈◯尊澄、尊雲、〉も、其御心して坂本に待聞え給ひけれど、今はか様に事違ぬればあひなしとて、俄に道おかへて奈良の京へぞ赴せ給ふ、中務の宮〈◯尊良〉も御馬にて追て参り給ふ、九条わたり迄御車にて、夫よりみかども仮の御ぞにやつれさせ給ひて、御馬にたてまつる程、こはいかにしつる事ぞと、夢の心ちしておぼさる、御供に按察大納言公敏、万里小路中納言藤房、源中納言具行、四条中納言隆資など参れり、何れもあやしき姿に紛らはして、くらき道おたどりおはする程、げにやみのうつヽのこヽちして、我にもあらぬさまなり、丑みつばかりに木幡山お過させ給ふ、いとむくつけし、木津といふわたりに御馬とヾめて、東南院の僧正の許へ御消息遣す、それより御輿お参らせたるに奉りて、奈良へおはしまし著ぬ、援に中一日ありて、廿七日和束の鷲峰山へ行幸ありけれども、そこもさるべくやなかりけん、笠置寺といふ山寺へ入せ給ひぬ、所のさまたやすく人の通ひぬべき様もなく、よろしかるべしとて木の丸殿の構お始らる、是よりぞ人々少し心ちとりしづめて、近き国々の兵など召に遣す、〈◯中略〉東の夷どもヽ漸く攻上る由聞ゆ、元より京にある武士共も我先にと競ひ参る、木の丸殿にはさこそいへ、むね〳〵しき者もなし、いかに成行べきにかといと物心細くおぼし乱る、〈◯中略〉既に東武士共、雲霞の勢おたなびき上る由聞ゆれば、笠置にもいみじう覚し騒ぐ、元よりいとけはしき山の深きつヾらおりお、えもいはず木戸逆も木石弓などいふことヾもしたヽめらる、さりともたやすくは破れじと頼ませ給へるに、後の山より御敵くづれ参りて、木戸ども焼払ひ、おはしますあたり近く既に烟も懸りければ、今はいかヾせんにて、怪しき御姿にやつれてたどり出させ給ふ、座主の法親王、〈◯尊澄〉御手お引たてまつり給へるも、いとはかなげなる御有様なり、中務の御子、〈◯尊良〉大塔の宮〈◯尊雲〉などは、兼てよりこヽお出させ給ひて、楠が館におはしましけり、行幸もそなた様にやと覚し心ざして、藤房具行両中納言、師賢の大納言入道手お取かはして、焰の中おまぬかれ出る程の心ち共、夢とだに思ひもわかずいと浅まし、少し延させ給ひてぞ御馬尋出て、君ばかり奉りぬれど、習はぬ山路に御心ちもそこなはれて、誠に危く見えさせ給へば、高間の山といふわたりに、しばし御心ちおためらふ処に、山城国の民にて、深須の太郎入道とかいふ者参り懸りて、案内聞えたるしもいと目醒しう口おし、上達部思ひやるかたなくて、隻目お見かはして、如何様にせんとあきれたるに、東より上れる大将軍にて、陸奥の国の守貞直といふ大勢にて参れり、今は唯ともかくも宣はすべき様無れば、終にかひなくて敵のために御身お任せぬる様なり、やがて宇治にみゆきあるべきよし奏すれば、御心にもあらでひかされおはします程に、心うしといふもなのめなり、〈◯中略〉君おば宇治へ入たてまつりて、先事のよし六波羅へ聞ゆる程に、一二日御逗留あり、〈◯中略〉十月三日、都へ入せ給ふも、思ひしに替りていとすさまじげなる武士ども、衛府の佐の心ちして、御輿近く打囲みたり、鳳輦にはあらぬ綱代輿のあやしきにぞたてまつれる、六波羅の北なる檜皮屋には、元より両院〈◯後伏見、花園、〉春宮〈◯光厳〉おはしませば、南の板屋のいと怪しきに御しつらひなどして、おはしまさするもいとおしう忝し、