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太平記

主上御没落笠置事
去程に類火東西より吹覆ひて、余烟皇居に懸りければ、主上〈◯後醍醐〉お始め進らせて、宮々卿相雲客皆徒跣なる体にて、何くお指ともなく、足に任せて落行給ふ、此人々始め一二町が程こそ、主上お扶進らせて、前後に御供おも申されたりけれ、雨風烈しく道闇うして、敵の巷の声此彼に聞えければ、次第に別々に成て、後には隻藤房季房二人より外は、主上の御手お引進らする人もなし、忝も十善の天子、玉体お田夫野人の形に替させ給ひて、そことも知ず迷ひ出させ給ひける御有様こそ浅ましけれ、如何にもして夜の中に赤坂の城へと、御心計お尽されけれども、仮にもいまだ習はせ給はぬ御歩行なれば、夢路おたどる御心地して、一足には息み、二足には立留り、昼は道の傍なる青塚の陰に御身お隠させ給ひて、寒草のおろそかなるお御座の茵とし、夜は人も通はぬ野原の露分迷はせ給ひて、羅縠の御袖お乾あへず、兎角して夜昼三日に、山城多賀郡〈◯郡恐郷誤〉なる、有王山〈◯増鏡、作高間山、〉の麓まで落させ給ひてけり、藤房李房も、三日まで口中の食お断ければ、足たゆみ身疲れて、今は如何なる目に遇とも、逃ぬべき心地もせざりければ、詮方なくて幽谷の岩お枕にて、君臣兄弟諸共に、現の夢に臥給ふ、梢お払ふ松の風お雨の降かと聞召て、木陰に立寄せ給ひたれば、下露のはら〳〵と御袖に懸りけるお、主上御覧ぜられて、
 さして行笠置の山お出しよりあめが下には隠家もなし
藤房卿涙お押へて、
いかにせん憑む陰とて立よれば猶袖ぬらす松の下露、山城国住人深須入道、松井蔵人二人は、此辺の案内者なりければ、山々峰々残る処なく捜ける間、皇居隠なく尋出されさせ給ふ、主上誠に怖しげなる御気色にて、女等心ある者ならば、天恩お戴て私の栄花お期せよと仰られければ、さしもの深須入道俄に心変して、哀れ此君お隠し奉りて、義兵お挙ばやと思ひけれども跡に続ける松井が所存知がたかりける間、事の漏れ易くして、道の成難からん事お憚て、黙止けるこそうたてけれ、俄の事にて網代の輿だに無りければ、張輿の怪しげなるに扶載せ進らせて、先づ南都の内山へ入奉る、〈◯中略〉十月二日、六波羅北方常葉駿河守範貞、三千余騎にて路お警固仕て、主上お宇治平等院へなし奉る、〈◯中略〉翌日竜駕お廻して、六波羅へなし進らせんとしけるお、前々臨幸の儀式ならでは、還幸成まじき由お強て仰出されける間、力なく鳳輦お用意し、袞衣お調進しける間、三日迄平等院に御逗留有てぞ六波羅へは入せ給ひける、日来の行幸に事替て、鳳輦は数万の武士に打囲れ、月卿雲客は怪しげなる籠輿伝馬に扶乗られて、七条お東へ、河原お上りに六波羅へと急せ給へば、見る人涙お流し、聞人心お傷しむ、