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増鏡
十六久米のさら山
元弘二年の春にもなりぬ、〈◯中略〉終に隠岐国へ移したてまつるべしとて、やよひの始の七日、都お出させ給、今はと聞召御心まどひどもいへばさらなり、〈◯中略〉卯の時ばかりに出させ給、あじろの御車に、御前どもなどは、故院〈◯後宇多〉の御世より仕うまつりなれにしものどもあるかぎり参れり、御車寄に西園寺中納言公重さぶらひ給、上は御かうぶりに、尋常の御直衣、指貫ひあやの御衣一重たてまつれり、〈◯中略〉御供には内侍の三位殿、大納言小宰相など、男には行房の中将忠顕少将ばかりつかうまつる、おのがじヽ宮この名残ども雲尽しがたし、六波羅よりの御送りの武士、さならでも名あるつは物ども千葉介貞胤おはじめとして、おぼえことなる限り十人えらびたてまつる〈◯中略〉六波羅より七条お西へ、大宮お南へおれて、東寺の門前に御車おさへらる、とばかり御念誦あるべし、〈◯中略〉君も御簾少しかきやりて、このもかのも御覧じ渡しつヽ御目とまらぬ草木もあるまじかめり、岩木ならねば、武士の鎧の袖どもヽしほれげにぞみゆる、都のこずえお、かくるヽまで御覧じおくるも、猶夢かと覚ゆ、鳥羽殿におはしましつきて、御よそひあらため、破子などまいらせけれど、気色ばかりにてまかづ、是より御輿にたてまつれば、とヾまるべき御前どもの、むなしき御車おなく〳〵やりかへるとて、くれまどひたるけしき、いと堪がたげなり、〈◯中略〉出雲の国やすきの津といふ所より、御舟にたてまつる、大船二十四艘、小舟どもはしに数しらず付たり、〈◯中略〉彼嶋におはしましつきぬ、〈◯中略〉海づらよりは少し入たる国分寺といふ寺お、よろしきさまにとりはらひて、おはしまし所に定む、