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太平記

主上上皇御沈落事
援に糟谷三郎宗秋、六波羅殿〈◯北条仲時、北条時益、〉の御前に参て申けるは、〈◯中略〉主上上皇お取奉りて、関東へ御下り候て後、重て大勢お以京都お攻られ候へかし、〈◯中略〉是程に浅まなる平城に、主上上皇お籠進らせて、名称、匹夫の鋒に名お失はせ給はん事、口惜かるべき事に候はずやと再三強て申ければ、両六波羅実もとや思はれけん、さらば先女院皇后北政所お始進らせて、面々の女性少き人人お忍やかに落して後、心閑に一方お打破て落べしと評定有て、〈◯中略〉南方左近将監時益は、行幸の御前お仕て打けるが、馬に騎ながら北方越後守の中門の際迄打寄て、主上〈◯光厳〉は、はや寮の御馬に召れて候に、などや長々しく打立せ給はぬぞと雲捨て打出ければ、〈◯中略〉竜駕遥に四宮河原お過させ給ふ処に、落人の通るぞ、打留て物具剥と呼る声前後に聞えて、矢お射ること雨の降が如し、角ては行末とても如何有べきとて、東宮お始進らせて、供奉の卿相雲客、方々へ落散給ひける程に、今は僅に日野大納言資名、勧修寺中納言経顕、綾小路中納言重資、禅林寺宰相有光計ぞ竜駕の前後には供奉せられける、〈◯中略〉主上其日は篠原宿に著せ給ふ、此にて怪しげなる網代輿お尋出して、歩立なる武士共、俄に駕輿丁の如くに成て、御輿の前後おぞ仕りける、