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槐記
別記
辛亥〈◯享保十六年〉九月十二日、後光明院には、各別の御器なりし事、毎度仰られし事なるが、其頃板倉周防守〈◯重宗〉が所司代役おつとめし時也、後水尾院に癰の御脳ましまして、日々の御容体お叡聞に達せしに、尚御心もとなくや思召されけん、板倉周防守お召て、近日行幸あるべきの由お仰下さる、周防守申し上げしは、朝覲行幸の事は、其儀大形の事ならず、先関東へも申遣し、其儀もたヾされずして、俄には調まじき由お申上げしに、さらば其事は止らるべし、禁中の辰巳の隅の築地より、院の御所の戌亥の隅まで、梯にて高廊下お急に申付くべし、禁裏の内お行幸なるは常の事なり、廊より廊へ移らるヽ事お、誰か行幸と申すものヽ有べきや、早々に仕立べしとて終に行幸なりけるとなり、