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源平盛衰記
十二
新院厳島鳥羽御幸事
三月十七日〈◯治承四年〉には、新院〈◯高倉〉安芸国一宮厳島の社へ、可成御幸由披露有ける、〈◯中略〉山門の訴訟も煩はしとて、よそ聞には鳥羽殿へ御幸と御披露有て、十八日の夜、太政入道〈◯平清盛〉の宿所、西八条へ入せ給て、前右大将宗盛お召て、明日鳥羽殿〈◯後白河〉へ参ばやと思召御事あり、入道に不相触しては協はじやと仰も終ぬに、竜眼に御涙お浮めさせ給ければ、大将も哀に覚て、宗盛角て候へば、何かは苦かるべきと被申けり、不斜御悦有て、去ば鳥羽殿〈◯後白河〉へ御気色申せと仰ければ、大将急其夜の中に被申たり、法皇は覚御心もなく悦び御坐して、余に恋しく思召御事とて、夢に見つるやらんとまで仰けるこそ哀なれ、十九日には、鳥羽殿へ御幸とて、西八条お夜中に出させ給けり、此は三月半余の事なれば、雲井の月も朧にて、四方の山辺も霞こめ、越路お差て帰雁、音絶々にぞ聞召、御供の公卿には、藤中納言家成卿の子息に、帥大納言隆季、前右馬助盛国の子息に、五条大納言邦綱、三条内大臣公教の子息に、藤大納言実国、前右大将宗盛、久我内大臣雅通の子息に、土御門宰相中将通親、殿上人には、隆季の子息に、右中将隆房朝臣、中納言資長子息に、右中弁兼光朝臣、三位範家子息に、宮内少輔棟範、公卿五人、殿上人三人、北面四人、十二人ぞ候ける、新院鳥羽殿にては、門前にして御車より下させ給て入せ給けり、暮行春の景なれば、梢の花色衰、宮の鶯音老たり、庭上草深して、宮中に人希也、指入せ給より、御涙ぞすヽませ給ける、去年正月六日、朝覲の御為に、七条殿の行幸思召出させ給ても、隻夢の御心地にぞまし〳〵ける、〈◯中略〉是は儀式一事もなし、成範中納言参給て、御気色被申ければ入せ御坐けり、法皇も新院も、御目お御覧じ合せまし〳〵て、互に一言の仰はなくして、唯御涙に咽ばせ給けり、少し指退きて尼ぜの候けるが、御二所の御有様お見進て、うつぶしに臥て泣けり、良久有て法皇御涙お推のごはせ給て、何なる御宿願にて、遥々と厳島まで思召立せ給にやと申させ給ければ、新院深く祈申旨候と計にて、又御涙お流させ給、法皇は此身の角打籠られたる事お、痛く歎かせ給なるに合て、祈誓せさせ給はん為にこそと御心得有けるに、いとヾ哀れに思召して、共に御涙に咽ばせ給ふ、御浄衣の袖も、御衣の袂も、絞る計にぞ見えける、昔今の御物語ども仰かはさせ御坐す、日暮夜お明させ給ふ共、尽しがたき御事なれば、御名残は惜く思召しけれども、泣々出させ給ひけり、法皇は今日の御見参おぞ返々悦申させ給ける、〈◯又見平家物語、厳島御幸記、〉