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増鏡
五内野の雪
寳治二年十月廿日ごろ、もみぢ御らんじがてら、うぢに御幸し給、〈おかのやどの(藤原兼経)のせつしやうの御程也〉かんだちめ殿上人、思ひ〳〵色〳〵のかり衣、きくもみぢのこきうすきぬひ物おり物あやにしき、かねてより世のいとなみなり、廿一日の朝ぼらけにいでさせ給、御えぼうしなほしうす色のうきおり物の御さしぬき、あじろびさしの御車にたてまつる、まづ殿上人下臈より前行す、〈◯中略〉けびいし北面などまで、思ひ〳〵にいかでめづらしきさまにとこのみたるは、ゆヽしきけむぶつにぞ侍し、〈◯中略〉建久に、後鳥羽院宇治の御幸の時、修明門院〈◯後鳥羽后重子〉そのころ二条の君とて、まいり給へりし例おまねばるヽとぞ聞えける、〈◯中略〉うぢ川のひがしのきしに御舟まうけられたれば、御車よりたてまつりうつるほど夕つかたになりぬ、御舟さし色々のかりあおにて、八人づヽさま〴〵なり、もとヽもの中将、院の御はかせもたる、あきとも、御しぢまいらす、平等院のつり殿に、御舟よせておりさせ給、ほん堂にて御誦経あり、御だうしまかでヽのち、あみだだう、御きやうざう、せんぼう堂までこと〴〵く御らんじわたす、川の左右のきしに、かヾりしろくたかせて、鵜かひどもめす、院の御まへよりはじめて、御台どもまいる、しろがねのにしきのうちしきなど、いときよらにまうけられたり、陪膳権大納言、〈きんすけ〉やくそう殿上人、かんだちめには御台四本、殿上人には二なり、女房の中にも、色々さま〴〵の風流のくだ物ついがさねなど、よしあるさまになまめかしうしなして、もてつヾきたるこまかにうつくし、院のうへ梅つぼのはなちいでにいらせたまふ、摂政殿、左のおとヾ、〈◯藤原兼平〉みな御ともにさぶらひ給、又の日のくれつかた、又御舟にて、まきの島、梅の島、たちばなのこ島など御らんぜらる、御あそびはじまる、舟のうちに楽器どもまうけられたれば、吹たてたる物のねよにしらず、所がらはましておもしろうきこゆるに、水のそこにもみヽとむる物やとそヾろさむきほどなり、かのうばそくの宮の、へだてヽみゆるとの給けむ、おちのしら浪も、えんなるおとおそへたるは、よろづおりからにや、廿三日還御の日ぞ、御おくり物どもたてまつり給、御てほん、和琴、御馬二匹まいる、院よりもあるじのおとヾに、御馬たてまつり給、院の御随身どもけはひことにて、ほうだうの前の庭に引いでたれば、えもむのすけ親朝、ちかつぐ、二人うけとる、殿おり給てはいし給、〈おかのや殿、かねつねのおとヾの御事なり、〉そのヽち賞おこなはる、左のおとヾ一ほんし給べきよし、院のうへ身づからのたまはすれば、又たちいでて、なほしおたてまつりながら拝舞し給、よろづ御心ゆくかぎり、あそびのヽしらせ給て、かへらせ給まヽに、左大臣どの〈かねひら〉従一位し給、殿のけいしすえより、四品ゆるさせ給、いとこよなし、寛治〈◯堀河〉には、よしつね正四位下、保元〈◯後白河〉に、月のわ殿〈◯藤原兼実〉従下の四ほんおぞし給ける、いまの御ありさまは、かのふるきためしにもこえたり、いとめでたくおもしろし、くわんぎよのたう日に、女房のそうぞくかいぐ、色々にいときよらなる十具、おの〳〵ひらづヽみにながびつにて、大納言二位のざうしにおくらる、又さいしやう三位のもとへも別につかはされけり、建久には、夏なりしかば、ひとへがさね二十具ありけるおおぼしいでけるにや、さま〴〵ゆヽしき事どもにてすぎぬ、〈◯刊本有錯乱、拠古写本訂、〉