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保元物語

新院御遷幸事
去程に今日、〈◯保元元年七月廿二日〉蔵人左少弁資長奉綸言、仁和寺へ参り、明日廿三日、新院〈◯崇徳〉お讃岐国へ可奉遷由お奏聞す、院も都お出させ給べき由おば内々聞召けれ共、今日明日とは不思召処に、正しく勅使参て事定りしかば、御心細く思召ける余りに、角ぞ口ずさみ給ける、
 都には今宵計ぞ住の江のきしみちおりぬいかでつみ見ん、〈◯中略〉明れば廿三日、未だ夜深に仁和寺お出させ給ふ、美濃前司保成朝臣の車おめさる、佐渡式部大輔重成が郎等共御車差寄て、先女房達三人お御車に乗せ奉る、其後仙院被召ければ、女房達声お調へて泣悲み給、誠に日比の御幸には、ひさしの車お庁官などの寄しかば、公卿殿上人庭上に下立、御随身左右に列り、官人番長前後に順ひしに、是は怪げなる男、或甲冑お鎧たる兵なれば、目もくれ心も迷て泣悲むも理也、夜もほの〴〵と明行けば、鳥羽殿お過させ給とて、重成お被召て、田中殿へ参て、故院の御墓所お拝み、今お限りの暇おも申さんと思ふはいかにと被仰下ければ、重成畏て、安き御事にて候へ共、宣旨の刻限移候なば、後勘如何と畏申ければ、誠に女が痛申も理也、さらば安楽寿院の方へ御車お向けて、懸はづすべしと仰ければ、即牛おはづし西の方へ押向け奉れば、隻御涙にむせばせ給ふよそほひのみぞ聞えける、是お承る警固の武士共も、皆鎧の袖おぞぬらしける、暫有て鳥羽の南の門へ遣出す、国司季頼朝臣、御舟并武士両三人おまうけて、草津にて御舟に乗せ奉る、重成も讃岐迄御供仕べかりしお、堅く辞し申て罷帰れば、女が此程情有つるに即罷留れば、今日より弥御心細くこそ思召せ、光弘法師未だあらば、事の由お申て追て可参と申せ、返々此程の情こそ難忘思召せと御定有けるこそ忝なけれ、勅定なればにや、御舟に被召て後、御屋形の戸には外より鎖指てけり、是お見奉る者は不及申、怪の賤のめ、武き武士迄も、袖おしぼらぬはなかりけり、道すがらも墓々敷御膳も参らず、打解て御寝もならず、御歎に沈給へば、御命お保たせ可給とも不覚、月日の光おも御覧ぜず、隻烈き風、荒き波の音計、御耳のそこに留りける、〈◯中略〉讃岐に著せ給しかども、国司未だ御所お被造出ざれば、当国の在庁散位高季と雲者の造りたる一宇の堂松山と雲所にぞ入進せける、