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平治物語

院御所仁和寺御幸事
去程に同二十三日、〈◯平治元年十二月〉大内の兵〈◯信頼義朝等〉六波羅〈◯平氏一族〉より寄るとて騒けれども其儀もなし、総て十日より日々夜々に、六波羅には内裏より寄るとてひしめき、大内には六波羅より寄るとて、兵共右往左往に馳違、〈◯中略〉二十六日、夜更て蔵人右少弁成頼、一本御書所へ参て、君は如何思召れ候、世間は今夜の明ぬ前に乱べきにて候、経宗、惟方は申入旨候はずや、行幸も他所へ成せ給ひぬ、急ぎ何方へも御幸ならせおはしませと奏せられければ、上皇〈◯後白河〉驚かせ給ひて、仁和寺の方へこそ思召立めとて、殿上人の体に御姿おやつれさせ給ひて紛出させおはします、上西門の前にて、北野の方お伏拝ませ給ひて、それより御馬に召されけり、供奉の卿相雲客一人もなければ、御馬に任て御幸なる、いまだ夜半の事なれば、臥待の月もさし出ず、北山下しの音さえて、空かき曇降雪に、御幸の道も見分ず、木草の風にそよぐお聞召ても、逆徒の追奉るかと御胆お消させ給ひける、さてこそ一年、讃岐院〈◯崇徳〉如意山に御幸成ける事までも思召出させ給ひけれ、それは敗軍なれ共、家弘、光弘以下候て、憑母敷ぞ思召ける、是は然るべき武士一人も候はねば、御心細さの余りに、一首は角ぞ思召続けヽる、
 歎きにはいかなる花の咲やらんみになりてこそ思ひ知らるれ、墓々敷仰合らるべき人もなきまヽに、御心中に様々の御願おぞ立させ給ひける、世静て後、日吉社へ御幸成たりしも、其時の御立願とぞ聞えし、兎角して仁和寺に著せ給ふ、此由仰られしかば、御悦有て御座しつらひ入進らせて、供御御羞など、甲斐々々敷饗し進らせ給ひける、