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源平盛衰記
十二
一院鳥羽籠居事
同〈◯治承三年十一月〉廿日、院〈◯後白河〉御所七条殿に、軍兵如雲霞馳集て四面お打囲、二三万騎もや有らんとぞ見えける、御所中に候合たる公卿殿上人、上下の北面女房達、こは何事ぞとあきれ迷けり、〈◯中略〉法皇は日比の有様事の体、御心得ぬ事なれ共、流石忽に懸るべしとは思召よらざりけるに、まのあたり心憂事お叡覧ありければ、隻あきれてぞ渡らせ給ける、御車寄には前右大将宗盛卿参給へり、法皇の仰には、こは何事ぞ、遠国へも遷し、人なき島にも放つべきにや、左程の罪有とこそ思召さね、主上〈◯高倉〉さて御坐せば、世務に口入する事許にてこそあれ、其事不可然、向後は天下の事にいろはでこそあらめ、女さてあれば思放つ事はよもあらじとこそ思召せ、其にいかにかく心憂目おば見するぞと仰られもあへず、竜眼より御涙おはら〳〵と流させ給けり、大将も見進せては涙お流し被申けるは、指もの御事は争有べき、世間鎮らんまで暫く鳥羽殿へ移し進せんとぞ、入道〈◯平清盛〉は申侍つると被申ければ、左も右も計にこそと仰もはてさせ給はぬに御車お指よせて、大将軈て御車寄に候はれけり、御経箱計ぞ御車には入させ給ける、御供おも仕れかしと御気色の見えければ、宗盛卿心苦く思進て、御供に候て見置進たくは思給ひけれども、入道いかヾ宣はんずらんと、恐さに、涙お押へて留り給ふ、公卿殿上人の供奉する一人もなし、北面の下臈二三ぞ候ける御力者に金行法師は、君はいづくへ御幸有て、何とならせ給やらんとて、御車の後に、下臈なればかきまぎれて泣々ぞ参ける、其外の人々は、七条殿よりちり〴〵に皆帰にけり、御車の前後左右には、軍兵いくらと雲数お不知打囲て、七条殿お西へ、朱雀お下に渡らせ給ければ、上下貴賤の男女迄も、法皇の流され御坐と哼り見進ければ、御供の兵までも涙おぞ流しける、鳥羽の北殿へ入進せけり、平家の侍に肥前守泰綱奉て奉守護、御所には然べき者一人も候はず、右衛門佐と申ける女房の尼に成て、尼御前おば略して、尼ぜと申ける計ぞ免されて候ける、