[p.0761][p.0762]
増鏡
二新島守
承久も三年になりぬ、〈◯中略〉さても院〈◯後鳥羽〉のおぼしかまふる事、忍ぶとすれど漸洩聞えて、ひがし様にも其心づかひすべかめり、東の代官にて伊賀の判官光季といふものあり、かつがつ彼お御勘事のよし仰せらるれば、御方に参る兵共押寄たるに、遁るべき様なくて腹切てけり、先いとめでたしとぞ院はおぼしめしける、東にもいみじうあわてさわぐ、〈◯中略〉六月廿日あまりにや、いくばくの戦ひだになくて、終に御方の軍破れぬ、荒磯にたかしほなどのさしくるやうにて、泰時と時房乱れ入ぬれば、いはん方なくあきれて、上下隻物にぞあたりまどふ、東よりいひおこするまヽに、彼ふたりの大将軍はからひおきてつヽ、保元の例にや、院の上、都の外に移し奉るべしと聞ゆれば、女院宮々所々におぼしまどふ事さらなり、本院は隠岐の国におはしますべければ、先鳥羽殿へ、あじろ車のあやしげなるにて七月六日入せ給、今日お限りの御ありきあさましうあはれなり、物にもがなやとおぼさるヽもかひなし、其日やがて御ぐしおろす、御年四十に一二やあまらせ給ふらん、まだいとおしかるべき御ほどなり、信実朝臣めして、御姿うつし書せらる、七条の院〈◯母后殖子〉へ奉らせ給はむとなり、かくて同じ十三日に、御船にたてまつりて、遥なる浪路おしのぎおはします、〈◯中略〉新院〈◯順徳〉も佐渡国に移らせ給、〈◯中略〉中院〈◯土御門〉ははじめよりしろしめさぬ事なれば、東にもとがめ申さねど、父の院はるかに移らせ給ぬるに、のどかにて都にてあらん事いとおそれありとおぼされて、御心もて、其年閏十月十日、土佐の国の畑といふ所に渡らせ給ぬ、〈◯中略〉責て近きほどにと東より奏したりければ、後には阿波の国にうつらせ給にき、