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太平記
三十
持明院殿吉野遷幸事附梶井宮事
北畠右衛門督顕能、兵五百余騎お率して、持明院殿へ参り、〈◯中略〉四条大納言隆蔭卿お以て、世の静り候はん程は、皇居お南山に移し進らすべしとの勅定にて候と奏せられければ、両院〈◯光厳、光明、〉主上、〈◯崇光〉東宮〈◯直仁〉あきれさせ給へる計にて、兎角の御言にも及ばず、〈◯中略〉御車お二両差寄、余りに時刻移候と急げば、本院、新院、主上、春宮御同車有て、南の門より出御なる、〈◯中略〉東寺までは月卿雲客数多供奉せられたりけれども、協ふまじき由お顕能申されければ、三条中将実春、典薬頭篤直計お召具せられて、見馴ぬ兵に打囲まれ、鳥羽まで御幸成たれば、夜は早ほのぼのと明はてぬ、此に御車お駐めて、怪しげなる綱代輿に召替させ進らせ、日お経て、吉野奥賀名生と雲所へ御幸なし奉る、
 ◯按ずるに、前条に掲ぐる吉野拾遺に、旧都の主上と雲ひ、太平記に、両院主上とある主上は、崇光天皇の御事なれども、是より先観応二年十一月、既に帝位お廃せられたれば、主上と雲へるは誤なり、