[p.0789][p.0790][p.0791]
太上天皇とは、譲位の天皇の尊称にして、太上皇と雲ひ、上皇と雲ふは、並に略称なり、或は此二号は、支那の語お用いたるにてもあるべし、又太上法皇と雲ひ、法皇と雲ふは、出家の称にして、院と雲ふは御所より起れる称なり、上古には禅譲の事なければ、此称のあらざりしは勿論にて、禅譲の既に起りし後も、初は未だ此称お立てざりしに、後には前帝は必ず太上天皇と号し奉るお以て例と為せり、茲に其始お原ぬるに、扶桑略記に、舒明天皇の太上天皇と称したまひしことお挙げたれど、他の古書に未だ其徴お見ざれば、恐くは謬伝ならん、孝徳天皇の登祚の日に、皇極天皇お尊びて皇祖母尊と称し奉りしも、太上天皇とは異なり、其太上天皇の称の、正しく国史に見えたるは、持統天皇お以て始とす、是より後、譲位は殆ど恒例の如くなりしかば、太上天皇たる君主も亦多し、然れども尊号お上ることは、当時の史に明文なし、其明に史籍に見えたるは、淳和天皇より嵯峨天皇に上りたまひしお以て始と為し、尊号お辞し給ふことも、亦此時より古きはなし、而して平城天皇の尊号お辞したまふの挙は、反て嵯峨天皇の後に在り、
尊号お辞し給ふには、必ず数回の往復お経て、在位の天皇より、終に聴従したまはざるお以て例とす、其聴従し給はざる書お名づけて尊号御報書と雲ふ、此礼、応仁以降中絶せしが、桜町天皇の朝に再興せられたり、
尊号お辞し給ふ中に於て、宇多天皇が六たび辞書お上りたまひしが如きは、歴代中希覯なるものとす、故に醍醐天皇も聴従して、尊号お停めたまへり、又鳥羽、後嵯峨の二天皇が厄会お禳はんが為に、永く尊号お停めんことお請ひたまひて、勅答なかりしが如きは並に異例なり、然れども皆一時の事にて、後に尊号お称したまひしが如し、宇多天皇が太上法皇と称し、鳥羽、後嵯峨の二天皇が上皇と称したまひしにて知るべし、太上法皇の称は、実に宇多法皇お以て始とす、
太上天皇の号は、上に雲へる如く、譲位の後に在るものなり、然れども亦変例なきにあらず、安徳天皇の播遷の禍に遭ひたまふや、後鳥羽天皇が、遥に尊びて太上天皇と為したまひしが如き是なり、北朝より後醍醐天皇に尊号お上りたまひしも此類にて、並に尊号お受けたまひしにあらず、又帝位お黜けられて尊号お受け給ひしあり、光厳、崇光の二天皇が貶せられて、並に上皇の号お受けたまひしが如し、又出家の後に於て、始て尊号お称し給ひしあり、花山天皇の如き是なり、幼冲にして太上天皇と称し給ひしあり、六条天皇の如き是なり、同時に二上皇ありしは、淳和天皇の朝の、平城嵯峨に始まる、其後三上皇あるは、平常の事にて、後二条天皇の朝には、五上皇あり、故に一院、本院、中院、新院等の称お以て之お分てり、
太上天皇は、譲位の天皇の尊称なれど、天皇の御父たる親王お升せて太上天皇とするあり、其生前なるは、守貞親王〈後高倉院〉貞成親王〈後崇光院〉にして、薨後に贈られたるは、誠仁親王なり、又太上天皇に準じて待遇せられしは、敦明親王〈小一条院〉なり、典仁親王お追尊して太上天皇と為したまひしが如きは、維新の後に係れども、聖上追孝の盛志お表彰し奉らんが為に、特に例お破りて之お掲げたり、白河上皇より以後数世の間、譲位の後、院中にて大政お聴き、院宣お以て天下に号令すること自ら慣例となりて、在位の天皇は、殆ど尸位の姿になりしかば、院中の事随て繁く、院の職員も益多くなれり、是啻に太上天皇の一大変なるのみならず、実に国勢上の一大沿革なり、なほ官位部の院司等お参看すべし、又太上天皇の封戸の事は、封禄部に在り、又御幸の事、出家の事は各其篇あり、而して特に此篇と適切の関係お有するものは譲位の篇なり、皆以て参看すべし、