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万葉集
一雑歌
二年〈◯大寳〉壬寅、太上天皇〈◯持統〉幸参河国、〈◯下略〉
◯按ずるに、皇祖母尊の称は、是より先き皇極天皇の朝に、御母吉備女王お尊びて、皇祖母命と称し奉りしに起る、祖母は即ち母お雲ふなり、祖の字お訓じておやと為す、故に上古には或は母に祖の字お用いたり、古事記に大穴牟遅神の母、刺国若比売お指して御祖(みおや)神と雲ひしが如し、されば是は神皇正統記に雲へる如く、太上天皇とは異なり、太上天皇の称は実に持統天皇に起れり、されども当時後帝より上り給ひしにはあらざるべし、抑も太上の称は支那に在りては嬴秦に起りて、始皇が其父荘襄王お追尊して太上皇と為しヽお以て権輿とす、されども是は歿後の事なり、其後、漢の高祖が其父お尊びて太上皇と為しヽは、生存中の事にはあれども帝位に昇りしものにはあらず、後凉の呂光が天王と為り、子お立てヽ位お紹がしめ、自ら太上皇帝と称せしが如きは自称なり、唐書に太宗の父、高祖の事お挙げて、太上皇徙居大安宮とあるも自称なるべし、故に持統天皇の太上天皇も、尊号お上りしにはあらざるべしと思はるるなり、且つ令の本注には、太上天皇、譲位帝所称とありて、譲位の後は例として称すべきに似たり、かく支那にては、自称せしことも、尊号お上りしこともあれど、吾邦にては、其初は別に上りしにはあらざらん、是より後数世の間も亦尊号お上るの文なし、嵯峨天皇の譲位し給ふや、自ら帝号お除き、人臣に列せんとす、是に於て尊号お上るの詔あり、尊号お上ることの明に史に見えたるは是お始とす、
又按ずるに、扶桑略記舒明天皇十三年の条に、一説雲、譲位於皇極天皇、号太上天皇とあるに拠れば、太上天皇の尊号は、既に舒明天皇に起れるが如し、然れども他書に明徴お得ざれば、信お措き難し、