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出家とは、所住の家お出でヽ、剃髪して仏に帰するの謂なり、而るに我邦にては、在家出家お問はず、剃髪するお以て出家と雲ふ、故に今此称に依る、
太上天皇の出家お挙ぐれば、清和上皇は、酒酢塩豉お御せず、二三日お間てヽ、一たび斎飯お進め、宇多法皇は、諸国お偏歴し、備に辛酸お嘗め、仁和寺の開祖と為り、其法お後世に伝へたまひしが如きは、殊に著明なるものなり、光厳上皇の、吉野の峰お攀ぢて、南朝の天皇と相見て、互に嫌隙の念お其間に措きたまはざりしが如きは、蓋し親親の情厚きに由ると雖も、亦以て当時仏教お崇尚するの一旦お観るべし、要するに上皇の出家は、其縁由一様ならず、或は疾病に由り、或は皇子お喪ひ給ふに由り、或は悼亡に由り、悼亡にも後宮の事に関するあり、又其間には時事の変故に感じ給ふあり、聖旨に出でずして権臣の圧制に由るあり、而して出家するには、必ず僧の手お借るべきお、或は親手に剪髪し給ふあり、且つ其時お挙ぐれば、或は大漸に及びて俄に行ひ給ふあり、或は登遐の後に至りて剃髪し給ふあり、
出家は、戒お受け、法衣お纏ひ、法名お命ずるお以て、上皇も亦此例に依り、且つ太上法皇、又は単に法皇と称し奉れり、其間には寺院に御するあり、清和上皇の円覚寺に於ける、宇多法皇の仁和寺に於ける、円融上皇の円融寺に於けるが如き是なり、然れども後世は多く離宮に御せり、且つ出家の天皇には、上古は諡お上らざるお以て例と為す、聖武孝謙の二天皇の如き是なり、
女帝の上皇と為り出家し給ひしは、古来孝謙天皇一人のみ、是は其顱お円にし給ひしにはあらずして、額髪お剃除せしに止まりしなり、なほ出家の事は、釈教部に得度の篇あれば参看すべし、
受戒は、更に出家の後に於てするあり、出家せずして行ふあり、或は初に東大寺にて行ひ、後に重ねて延暦寺にて行ふ等の事ありて、其受戒の座に在りては、上皇の至尊お降し、布衣お著け、鉄鉢お持ち、衆僧の下に坐し給ふ等の事あり、是も釈教部に、戒律の篇あれば就きて見るべし、
灌頂受衣の事も、釈教部に其篇あれば此に贅せず、宇多天皇お金剛覚と称し奉りしが如きは、所謂灌頂号にして、灌頂の時に命じたるなり、
天皇在位の出家は、聖武天皇に昉り、自ら三宝奴と称し、次に仁明天皇は、其大漸に及びて之お行ひ給へり、花山天皇は、年少にして世事に更歴し給はず、衽席の愛に溺れ、姦臣の術中に陥り給ひしものにて、亦在位中の事なり、