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源平盛衰記

一院御出家事
一院〈◯後白河〉も被思召けるは、〈◯中略〉清盛かく心の儘に振舞こそ然べからね、是も末代に及て、王法の尽ぬるにや、迚も由なしと思食立せ給て、一筋に後世の御勤思召たつと聞えし程に、仁安四年四月八日、改元ありて嘉応と雲、嘉応元年〈己丑〉六月十七日、上皇法住寺殿にして御出家あり、御歳四十三、御戒師は園城寺の前大僧正覚忠、唄は法印公俊、憲覚、御剃手法印尊覚、権大僧都公顕也、今度皆智証の門徒お用らる、御布施おば大相国已下ぞ被執行ける、今日より始て五十箇日の御逆修あり、八月八日結願せらる、故に二条院は、御嫡子也しか共先立せ給ぬ、新院、〈◯六条〉は嫡孫、当今〈◯高倉〉は又御子にて御坐せば、向後までも憑しき御事なれども、平家朝威お蔑ろにするも目醒く思食ければ、穢土の習、人の有様もいとはしく思食ければ、十善の鬢髪お落し、九品の蓮台お、志し給も最貴し、平家の振舞中々御善知識とぞ思食す、御出家の事、兼て有披露ければ、雲上人御前に候て、目出度御事と色代申ては、御齢も盛に御坐せば、今暫なんど申合れけれ共、入道清盛は善悪物申さず、さこそと思けるにや、