[p.0875][p.0876][p.0877]
太平記
三十九
光厳院禅定法皇行脚御事光厳院禅定法皇は、正平七年の比、南山賀名生の奥より、楚の囚お赦されさせ給ひて、都へ還御成たりし後、世中おいとヾうき物に思召知せ給ひしかば、姑射山の雲お辞し、汾水陽の花お捨て、猶御身お軽く持ばやと思召けり、御有増の末通て、方袍円頂の出塵の徒と成せ給ひしかば、伏見里の奥、光厳院と聞えし幽閑の地にぞ住せ給ける、是も猶都近き所なれば、旧臣の参り仕へんとするも厭はしく、浮世の事の御耳に触るも冷しく思召ければ、来無所止去無住、柱杖頭辺活路通と、中峰和尚の作られし送行偈、誠に由ありと御心に染て、人工行者の一人おも召具せられず、隻順覚と申ける僧お一人御供にて、山林抖擻の為に立出させ給ふ、〈◯中略〉是より高野山お御覧ぜんと思召て、〈◯中略〉日お経て紀伊川お渡らせ給ひける時、橋柱朽て見るも危き柴橋あり、御足冷しく御肝消て、渡り兼させ給ひたれば、橋の半に立迷ひておはするお、誰とは知ず、如何様此辺に臂お張、作り眼する者にてぞあるらんと覚たる武士七八人、跡より来りけるが、法皇の橋の上に立せ給ひたるお見て、此なる僧の億病気なる見度もなさよ、是程急ぐ道の一つ橋お渡らばとく渡れかし、さなくば後に渡れかしとて押のけ進らせける程に、法皇橋の上より押落されさせ給ひて、水に沈ませ給ひにけり、順覚あら浅ましやとて、衣著ながら飛入て引起し進らせたれば、御膝は岩のかどに当りて血になり、御衣は水に漬りてしぼり得ず、泣々傍なる辻堂へ入進らせて、御衣お脱替させ進らせけり、古も懸る事やあるべきと、君臣ともに捨る世おさすがに思召出ければ、涙の懸る御袖はぬれてほすべき隙もなし、〈◯中略〉諸堂御巡礼ある処に、隻今出家したる者と覚しくて、濃墨染にしほれたる桑門二人御前に畏て、其事となく隻さめ〴〵とぞ泣居たりける、何者なるらんと怪く思召て、つくづくと御覧じければ、紀伊川お御渡有し時、橋の上より法皇お推落し進らせたりし者共にてぞ有ける、不思議や何事に今遁世おしけるぞや、是程心なき放逸の者も、世お捨る心の有けるかと思召て過させ給へば、此遁世者御跡に従ひて、順覚に泣々申けるは、紀伊川お御渡候し時、懸る止事なき御事とも知奉り候はで、玉体にあしく触奉りし事、余りに浅ましく存候て、此貌に罷成て候、仏種は縁より起る儀も候なれば、今より薪おひろひ水お汲む態にて候とも、三年が間常随給仕申候て、仏神三寳の御とがめおも免れ候はんとぞ申ける、よしや不軽菩薩の道お行給ひしに、罵詈誹謗する人おも咎めず、打擲蹂する者おも却て敬礼し給ひき、況我已に貌おやつして、人其昔お知ず、一時の誤何か苦しかるべき、出家は誠に因縁不思議なれども、随順せん事は努々協ふまじき由お仰られけれども、此者強て片時も離れ進らせざりしかば、暁閼伽の水汲に遣されたる其間に、順覚お召具して、潜に高野おぞ御出有ける、御下向は大和路に懸らせ給ひしかば、道の便も好とて、南方主上〈◯後村上〉の御坐ある吉野殿へ入せ給ふ、此三四年の先までは、両統南北に分れ、此に戦ひ彼に寇せしかば、呉越会稽に謀しが如く、漢楚覇上に軍せしにも過たりしに、今は散聖道人と成せ給ひて、玉体お麻衣草鞋にやつし、鸞輿お跣行の徒渉に易て、遥々と此山中迄分入せ給ひたれば、伝奏いまだ事の由お奏せざる前に、直衣の袖おぬらし主上いまだ御相看なき前に、御涙おぞ流させ給ひける、是に一日一夜御逗留有て、様々の御物語有、〈◯中略〉今はとて御帰あらんとするに、寮の御馬お進らせられたれども、堅く御辞退有て召れず、いつしか疲させ給ひぬれども、猶雪の如くなる御足に、あら〳〵としたる草鞋お召れて、立出させ給へば、主上は武者所まで出御成て御簾お褰られ、月卿雲客は庭上の外まで送進らせて、皆涙にぞ立ぬれ給ひける、〈◯中略〉諸国御抖擻の後、光厳院へ御帰有て暫く御坐有けるが、中使頻に到て松風の夢お破り、旧臣常に参て蘿月の寂お妨ける程に、此も今は住憂と思召、丹波国山国と雲所へ跡お消て移らせ給ひける、