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保元物語

新院御出家事
去程に新院〈◯崇徳〉は為義お始として、家弘、光弘、武者所季能等お御供にて、如意山へ入せ給ふ、〈◯中略〉武士共は皆何地へも落行べし、丸は何にも協はねば先援にて休べし、若兵追来らば、手お合て降おこひても、命計りは助りなんと仰なりけれ共、判官お始として、各命お君に進せぬる上は、何方へか罷候べき、東国などへ御開候はヾ、いづく迄も御伴仕、御行末お見果進せんと申ければ、我も左こそは思しか共、今は何とも協ひ難し、女等は疾疾退散して命おたすかるべし、各角て侍らば、御命おも敵に奪れなんと、再三しひて仰ければ、此上は却て恐有とて、諸将皆鎧袖おぞぬらしける、角て可協ならねば、皆散々に成にけり、〈◯中略〉御出家有度由仰なりけれ共、此山中にては難協由申上れば、御涙にむせばせ給ふぞ忝き、〈◯中略〉兎角して知足院の方へ御幸なし奉り、怪しげなる僧坊に入れ進せて、おも湯などおぞ進め奉ける、上皇是にて軈て御ぐしおろさせ給ひければ、〈◯帝王編年記、作於仁和寺御出家、〉家弘も髻切てけり、角ては終に悪かりなん、いづくへか渡御有べきと申せば、仁和寺へこそゆかめ、それもよも被入じ、隻押へて輿おかき入れよと有しかば、御室へこそなし奉れ、門主は故院の御仏事のために、鳥羽殿へ御出有けり、家弘は是より御暇申て、北山の方へ罷ける道にて、修行者に行逢しかば、是おかたらひ戒保などして、出家の形にぞ成にける、