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御中陰御仏凡人相違事
歴代残闕日記所収
一依或人問太閤所答条々〈文明三、四、十二、書写了、〉
一諡号、追号、此かはりめは、諡おばおくりなとよみて、生時の行跡によりて没後の号として、仁徳ましまし候へば仁徳天皇と申し、武徳おはしまし候へば桓武天皇と申候、くはしく合ひたる事は候はねども、本説此分にて候、是は徳によりて可申候、所名にはよらず候、追号と申すは多分御在所の号、又山陵の号などお用られ候、嵯峨、淳和、陽成などは、御在所の名お御追号に用られ、宇多、醍醐、村上などは、みさヽぎの号にて、光厳、光明、崇光などは、御庵室の額にて、遺勅によりて被用候、これも御在所に准じ、すべておぼしめし候、崇徳、顕徳、〈後鳥羽初御号〉順徳等三代は、遠嶋の御事にて候程に、院号お撰られておくり申され候、近頃称光院などは此例たるべく候かにて候、然としたる御在所は候はねども、院号に用られ候、安徳天皇などは諡号の准たるべく候、諡号は其人の徳によりたる号にて候程に、後の字お加へて用られたる事は今に其例なく候、又出家の後は諡号なきにて候、是によりて寛平法皇〈◯宇多〉より後は、天子の諡号たえたる事にて候、右兼良公〈◯一条〉言談雲雲、