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古事記伝
十八
凡て御代御代の漢様の諡のこと、書紀私記に、師説、神武等諡名者、淡海御船奉勅撰也とあり、まことに然るべし、〈時は桓武の朝と或説に雲るも然るべし、(中略)先続紀お考るに、持統より以来御代御代の天皇崩の時、みな古礼の諡お奉しことのみ見えて、漢様のはすべて見えず、然るに天平寳字二年八月に、寳字称徳孝謙皇帝と雲尊号お奉しことあり、是は当代の御事にて諡には非ざれども、漢様音読の号の始にぞ有ける、さて同月に、豊桜彦天皇に勝寳感神聖武皇帝と雲尊号お奉らる、是ぞ諡号の漢様の始なる、されど此時も古の歴代天皇の漢諡のさだはなかりき、さて光仁天皇崩坐て、上尊諡曰天宗高紹天皇とあるは、音読の漢諡の如聞ゆめれどもさにあらず、なほ古礼の諡なり、文武天皇の天真宗雲々、桓武天皇の皇統雲雲なども、皇朝様の諡ながら漢めきたるは、やうやくに漢意のまじれる故ぞかし、此天宗高紹天皇も、漢様のは別に光仁と申て、本紀の首にも、細字にて光仁天皇と注せり、続紀の例、凡て古体の諡お標て、其下に漢様のお注せれば、是も其例なること明けし、又此後仁明天皇までは、御代々々皆古礼の諡あれば、光仁天皇にのみ無るべきに非ず、孝謙天皇は出家し賜へるに因て諡お奉らず、かの寳字二年の尊号お用る由見ゆ、嵯峨天皇のは、有けるが伝らざるか、又元より無りしか物に見えず、此二御代の余は、仁明まで皆有なり、如此て桓武天皇の御代に至て、かの御船真人の在せし延暦四年七月までの間にぞ、神武より光仁までの漢様の諡は撰定めしめ賜ひけむ、其証は、延暦十六年に成れる続紀に、古の天皇たちのも往々見えたり、第一巻に天武天皇天智天皇などある類是なり、然るに如此く漢諡お以て記されたる処お考るに、皆撰者の文のみにして、昔の文お載たるには、皆某宮御宇天皇、或は某宮朝などとのみありて、漢諡は見えたることなし、これらお以て、撰ばれたる時お定むべし、然るに甘露寺親長卿記などに、文武天皇の御世に、淡海公藤原不比等に勅して定めしめ賜へる由あるは、委曲も考へざる浮たる説なり、そは淡海御船てふ人は、世に聞なれざる故に、ゆくりなく淡海公に思ひまがへて、桓武の御世おも文武と誤れるものなり、〉