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比古婆衣

古事記伝漢様御諡附考
延暦より前に、既に漢ざまの御諡お奉られし事は、淡海御船真人の、天平勝寳三年十一月に撰める由序せる懐風藻に、文武天皇と題て御詩お載たり、序文に作者六十四人、具題姓名、並顕爵里、冠篇首と記したれば、此御諡は素より、然題記したりしなり、さて其天平勝寳三年は、孝謙天皇の御世にて、御船真人は廿五の齢にて、いまだ姓お賜はらざりし時に当れり、故按に文武天皇は、天縦寛仁、慍不形色博渉経史と続日本紀に載られ、〈◯中略〉さるにあはせて次の御代元明天皇の御時、この天皇に特に始て、漢様の御諡お奉られたるにぞあるべき、〈◯中略〉猶其証とすべき事は、伊福部臣徳足比売の墓誌に、〈安永三年、因幡国法美郡、府中と雲処にて堀出せる也、〉藤原大宮御宇〈大行〉天皇〈大行の字、右の方へよせて小さく書たり、〉御世、慶雲四年歳次丁未春二月二十五日、従七位下被賜仕奉、和銅元年歳次戊申秋七月一日卒雲々、故謹録錍、和銅三年十一月十三日己未と記せる、大行天皇は文武天皇の御事なるお、しか大行としも称せるは、漢国にて王の死て諡せぬ間の称なるお、其頃まねばせ給へるにて、〈◯中略〉其は此天皇慶雲四年六月辛巳〈十五日〉に崩給ひたるに、始て漢様の御諡お奉らるべき御定ありて、諒闇はてヽ後奉らるヽまでは、大行天皇と称し奉るべく御おきてありけるによれるものなるべし、故徳足比売の卒れる和銅元年七月は、元明天皇いまだ、諒闇にまし〳〵て、いまだ其御諡奉られざりつる間なりければ、当時の御称おもてしか記せるものなるべし、万葉集〈一の巻〉に、大行天皇幸于難波宮時歌、また大行天皇幸于吉野宮時歌と書る、既に岡部翁〈◯真淵〉の考おかれつるごとく、文武天皇の御事なるお、これもかの御諡奉られざるほどに、記おけるまヽの文なるお、其まヽに書集めたるものなるべし、おもひ合すべし、