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続日本紀
二十一淳仁
天平寳字二年八月庚子朔、高野(○○)天皇〈◯孝謙〉禅位於皇太子、
◯按ずるに、村尾元融の続日本紀考証に、元融案、寳亀元年八月紀雲、葬高野天皇於大和国添下郡高野山陵、又高野陵見諸陵式、蓋山陵所在、因以為称歟、不詳とあれど、万葉集一に、長(ながの)皇子与志貴(しきの)皇子於佐紀(さきの)宮倶宴歌、秋去者(あきさらば)今毛見如(いまもみるごと)妻恋爾(つまこひに)鹿将鳴山曾(しかなかむやまぞ)高野原之宇倍(たかのはらのうへ)とあれば、陵号なること疑ふ可らず、