[p.0963][p.0964][p.0965][p.0966]
山陵とは帝皇の蒙墓お雲ふ、蓋し其高大なること、山の如く陵の如くなるお以て名づくる所にして、或は古昔陵に因りて之お為しヽに起ると雲ふ、其之おみはかと雲ふは、普通の称に敬語お加へたるものにて、みさヾきと雲ふは、帝皇に限れる特称なり、原来山陵の称は、斯く至尊にのみ用いることなれど、有功の皇子等も、其墓お陵と称するお得るは往時の制なり、其後孝謙天皇の朝に、特に勅ありて、母后藤原安宿媛、及び聖武天皇の母后藤原宮子娘の墓お陵と称せしめ給ひしより、皇后の墓は総て陵と称する事と為れり、然れども従前の皇后には及ぼさず、且つ此時は有功の皇子等も、陵とは称せざる事となりて、日本武尊、飯豊青皇女の如きは、原は陵と称せしが、延喜式には降して墓と為せり、蓋し延喜より前の制ならん、是れ陵墓の称の一変なり、独り神功皇后は、久しく朝に臨み政お摂し、殆ど至尊と均しきお以て、日本書紀には其墓お陵と称し、延喜式にも磐余稚桜宮御宇神功皇后と書して、亦陵と雲へり、当時又陵墓に近陵遠陵の称あり、血属の親疎に随ひて之お別つなり、
上古の山陵は皆高大にして、兆域甚だ広く、四面に池お環らし、羨道ありて出入すべく、其棺は石造なり、中に就きて特に偉観なるお仁徳天皇の陵とす、其周囲は十町に過ぎ、高さは十七間に近し、是より藤原奈良の二朝お歴て、平安の初に至りては、漸く古の如く壮大ならず、当時火葬盛に行はれ、且つ薄葬お以て主と為しヽかば、遺詔に依りて山陵お起さヾる事もありて、其極や陵の所在おも詳にせざるに至る、蓋し至尊の火葬は、持統天皇に起りし事にて、其遺骨は天武天皇の陵に合葬せしお以て、其地は明に知られたれども、嵯峨淳和の二天皇は、山陵お置かざるに由り、荷前の例幣にも預りたまはず、清和天皇の御骨お水尾山上に置き、宇多天皇お大内山に殪み奉りしが如き、均しく此類なり、是より後は多く寺院に葬りて、古の山陵の如きもの益鮮く、後白河天皇お法華堂に収め奉りしより、法華堂に於てするもの亦多し、後深草天皇の如きは、安楽行院の仏壇の下に収め奉れり、亦法華堂の類なり、而して四条天皇お泉涌寺に殪み奉りしより、此寺に収め奉ることも数世なりしが、後陽成天皇より後は、此お以て例と為し、泉涌寺は殆ど御菩提所の如くなれり、然るに孝明天皇の崩じたまひし後に、壮大なる山陵お起したまひしは、聖上の孝思に本づきしものにて、従前の陋習お一洗するものなり、
毎年の終に、使者お諸陵、及び外戚の墓等に分遣し、幣お進らしむる事あり、是お荷前(のざき)と雲ふ、荷前とは、先づ諸国の貢物お抽きて、之お薦むるの謂なり、清和天皇の即位の初に、十陵四墓の制お立つ、十陵は、天智、光仁、桓武、平城、仁明、文徳の六天皇、及び田原、崇道の追尊天皇、并に桓武天皇の母后、嵯峨天皇の母后〈亦平城の御母なり〉なり、天智、平城、崇道の外は、当時の本系の親なり、蓋し天智天皇は制度改革の功お以てし、崇道天皇は怨魂お慰するに出でしならん、並に歴世替らず、平城天皇は其故お詳にせざれども、或は嵯峨天皇お祭らざりしに由りて之に代ふるものか、是より二回の改定お歴て朱雀天皇の朝には、天智、光仁、桓武、仁明、光孝、醍醐の六天皇、及び崇道天皇、并に嵯峨天皇の母后、光孝天皇の母后、醍醐天皇の母后お十陵とす、是に於て傍系なるものは独り崇道天皇のみ、抑も荷前の幣お献ずるには、十陵お首と為し、天皇、建礼門に親臨して御拝あり、其使には納言以下お以て之に充つ、此余の陵墓の使は、陵墓の預人等お以て之に充て、大蔵省にて幣物お授けて発せしむ、爾るに其後、荷前の儀も漸く衰へて、後三条天皇の頃には、僅に故事お存するのみなりしが、幾もなくして終に廃絶せり、
荷前は恒例の事なれど、臨時にも告祭する事毎にありて、即位の如き、改元の如き、外国人の朝貢の如き、之に告げざるはなく、天皇の疾病の如き、災異の如き、亦多く之に祈れり、斯る事も後には漸く其数お減じ、殆ど絶無の姿になりしが、孝明天皇の朝に、四海の騒擾に際し、祈禳お行はせ給ひしは、廃典お興したまひしなり、
山陵の事は、治部省の諸陵寮にて掌ることにて、其下に陵戸あり、陵戸は雑戸の類にて、良民に歯するお得ず、調庸及び雑徭お蠲かれて、世々山陵お守るものなり、原来五戸にて一帝の山陵お守るべき制なれど、或は六戸なるあり、乃至一戸なるあり、陵戸なきもありて一ならず、而して陵戸少くして、其陵に充つるに足らざる地は、陵に近き百姓お点じ、年お限り庸徭お除き、守戸と為して之お補ひ、全く陵戸なき地は、守戸のみお以て之お守らしむるなり、守戸は良民にて、其陵戸に於けるは、恰も品部の雑戸に於けるが如し、
山陵は律令に明文ありて、兆域門内に闌入し、及び寸草尺木お攀折するも罪あるのみならず、其意中に之お毀たんと謀るときは、未だ之お実行せずと雖も、証跡明白なるときは、是お謀大逆と為し、首従の別なく皆之お斬に処するなり、然るに其法の斯く厳なるに拘はらず、樹木お伐り、及び汚穢お蒙らしめ、兆域の内に仏堂お建つる等の事ありて、朝廷より鎮祭したひし事屡あり、朝威漸く衰へ、武人権お弄し、四海鼎沸するに及ては、所在の山陵は、大に頽圮して、其状況は、愚民の一抔の土お取るのみならずして、凡そ臣子たる者の、痛哭流涕し、言はんと欲して言ふに忍びず、筆せんと欲して筆すること能はざるものあり、是に於て修築の議起る、抑も此議や、鎌倉幕府より足利氏お歴て、当時の人の曾て耳朶にも触れざりし所にして、之お発するは徳川幕府の時の儒生細井知慎にして、将軍綱吉は、此議に本づきて大に修造お加へたり、実に壙世の盛事なり、当時は実に闇黒お脱し、開明に趣けるものにて、文物欝興しければ、王室の衰替お歎き、山陵の事に感じ、之が為に書お著しヽものも少からず、松下見林が前王廟陵記の如き其一なり、蒲生秀実は、天保の比の人なり、一の窮措大お以て、山川お跋渉し、辛苦経営して、以て山陵志お著し、以て勤王の志気お鼔舞せしは、止に考索に供すべきのみならずして、其功誠に偉なりとす、是より後、孝明天皇の朝に、戸田越前守忠恕の建議に依り、将軍家茂は忠恕の家臣、間瀬和三郎忠至〈後に戸田大和守と称す〉おして大に力お修陵の事に用いしめしが、維新の初には、特に諸陵寮お興したまひしかば、漸次に旧観に復するに至れり、