[p.1022]
波夫理和射乃考
砂礫お以て陵上お葺くといふは、何の料にしたるにかいまだ考へず、されど前王廟陵記雲、山科陵〈天智天皇〉在鏡山麓、陵四面野名御廟野、陵状有八角石壇、上在六角丘、皆以碝磩築之、壇周廻亦敷碝磩、樹木叢生、とあるも同じ造状なるべければ、此御世の頃はなべて然せる制度なりけむと思はる、大柱お建るも何の用なるかしらず、〈字典に、釈氏は冢上立柱といふは似たる事ながら、さることヽも思はれず、又陵土の崩頽(くづれ)ぬ為にものせるかともおもへどあらず、〉信濃国諏訪神社〈上諏訪〉に拝殿は有れど宮作はなく、社地に大なる石窟あるお神の坐所と申して、其四隅に大なる柱お立て、此お御柱と雲て宮に擬へたり、此柱お七年に一度づヽ立替あり、其祭お御柱祭といふ、木は杉檜柀樫何にても大木お用ふる例なり〈こは平田篤胤の古史伝にいへる趣なり〉と雲お按ふに、古へは山陵お神霊の坐所としつるものと通(きこ)ゆれば、大きなる柱お建て、即神祭の料とせるにやあらむ、何にも由ありげなり、