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古事記伝
二十
近陵遠陵近墓遠墓とは、路程の近遠お以雲に非ず、近陵墓はいはゆる十陵八墓にて、其余お凡て遠陵墓とす、近とは、当代に親しく近き意お以雲なり、故近陵の幣物は、こよなく多く、なほ又別貢の幣物も多くありて、其は別に内蔵寮より供ることにて、其色目は内蔵式に見え、又中務式に、凡十二月奉諸陵幣者雲々、其別貢幣者、臨幸便所奉送、其使参議已上、及非参議三位、太政官定之、自余省点之雲々などヽ見えたる如く、近と遠とは甚く差別あるなり、抑此近遠の定まりしは、三代実録に、天安二年十二月九日、詔定十陵四墓、献年終荷前之幣とあるや始ならむ、其十陵は、天智天皇、田原天皇、光仁天皇、桓武天皇、平城天皇、仁明天王、文徳天皇と七代、是当代の皇祖等なり、平城は然らざれども近き故に加られたりと見ゆ、嵯峨淳和は近けれども、遺詔にて山陵お置れざる故に入ず、如此七代おしも定められしは、漢国の七廟の制おまねばれたるなるべし、さて余の三陵は、桓武の御母后と皇后と崇道天皇となり、崇道天皇は延暦の廃太子にて、そのころ砺給へりしより殊に祭らるヽなり、〈◯中略〉さて又元慶八年十二月廿日、定毎年献荷前幣十陵五墓雲々、この時さきに定まれる内お廃(はぶ)かれたると、新に置れたるとあり、其後御代々々に廃置ありて、延喜式のころは、十陵八墓なり、かくて後々には、たヾ此近陵墓の御祭のみの如くになりて、遠陵の奉幣のことは隠れゆきて、おさ〳〵物にも見えず、いと心うきことなりかし、抑近陵墓は、当代に近きお殊に厚く祭り坐なれば然もあるべきことなるお、其中に天智天皇おば永く廃(はぶ)かれぬことになりぬるは、此も彼漢国の制に、太祖の廟おば、百世といへども廃ずと雲にならひ賜へるなるべし、されど始清和の御代に、此天皇お第一に置れたるは、当代の大御父尊より、上七世なる故にこそありつらめ、必しも太祖とし賜ひしにはあらざるべし、然るお其より後々の御代に至ても、猶此天皇お殊に祭坐は何の由にかおぼつかなし、続紀御代々々の宣命に、近江大津宮御宇、大倭根子天皇乃、与天地共長、与日月共遠不改常典止立賜敷賜覇留法乎雲々、などヽありて、殊なる由もありげなれども、此天皇は皇太子に坐しヽほどより、藤原大臣〈◯鎌足〉と共に謀給て、蘇我入鹿お滅し給し御功と、又天下の御制度お漢様に革め給へることヽこそあれ、其他に殊なることも坐まさず、凡孝徳の御世に、万の御制の古より有来ぬるお廃て、多く漢様にしもなれるは、此天智天皇と、藤原大臣との御心より出づとぞ見えたる、後世に此天皇おしも、中興の主など申すめるは、此漢様の事お多く創坐る故なるべし、かくて此天皇の御陵おしも、永く殊に祭坐とならば、神武天皇の御陵おこそ、第一に厚く祭り賜ふべく、猶又余にも有べきおや、