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寺井菊居筆記
柏原陵、いろ〳〵近世説ありて、今の所には有べからず、桃山の内など申説もあり、予明和九辰年三月、至りて御陵へも上り見しに、文永中、盗人御陵おあばきし事、名勝志にくはしくあり、其跡とみえ、頂上大に凹にして、いかにも盗人の所為の跡と覚ゆる、天子の陵なれど、西面にして谷の細川南お流れ、池などの跡とも覚えず、然ども祟にて上賀茂近きとて、柏原へうつされし程の所なれば、今少入念あらんか、甚窮屈の地なり、大亀谷谷口町の北側、水茶屋の庭より入、うらの山麓にあり、此茶店陵戸と覚ゆる、天明大火後、大火の事、禁裏の女中などより何か俗事申なし、九条殿の御領にて、深草の荘屋長谷川太郎兵衛此陵の木おきりし故、九条殿御相続の障りなどヽ異説も出で、此御陵へ度々御内々の御使あり、千年御忌にも御内使立し故、此陵上の凹お平均して陵のかたちお失ひ、茶店のうらより至る所お分道に直し、天子の御陵お東面にしたり、猶糺すべし、