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金け原地蔵院過去帳
夫地蔵院は、金原寺の別院にして、開山聖覚法師より、数百年の星霜お経たり、然に当山堅空泰峯上人、深く金原寺の諸堂滅亡せしことお歎き、再建の志願ありといへども時至らず、猶亦両帝の法華堂も焼失して其跡ばかりなれば、毎月十一日と、十七日に、御陵前に誦経念仏せり、ある夜の夢に、或人異相お感見せしとかや、則法華堂は土御門院、後嵯峨院、両帝の御骨お此堂に納め奉る、即金原寺の北に当り、一町余の道法、土〈◯土恐大誤〉石の塚あり、これ法華堂のあとなり、時に泰峯上人、慶長十九年七月廿七日入寂せり、其のち太空説全上人、前代の如く毎月御陵前に回向せられける、説全上人、寛永十二年八月廿九日遷化せり、金原寺は其名計なれば、当山より兼つとめたり、今西谷の仏石は金原寺のあとなり、当山も度々陣火にあへども、再建ありて存在せりと雲、爾寛永十三年二月、地蔵院主専空玄智記、