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諸陵周垣成就記

我兄芝山先生、〈名知名、字孟賓、〉嘗大和国郡山にすみたまへり、古の帝都なれば諸陵ここかしこにおはします、世くだりて土民攀躋り、もしくは発きなどして、あさましきことお深くなげき、其国に君たる人、其所に令たる者の、世々お重ねて心なきことおかなしみおそれ給へども、力に及ばぬ事なればと打過したまひしが、元禄十年の春、知慎がもとへ書およせたまふ、よみて見れば、和州におはせし時、おもひ給ひしことヾもかいつらねて、今聖代にあたりて絶たるお継、廃たるお興し給ふ、爾がつかふる主〈◯柳沢氏〉は当世の柱梁として、わきて神祠仏寺修造の事お司りたまふ、又幸になんぢ其事おあづかりうけたまはるなれば、時ありて此事お聞え上てんや、万乙此事成就せば、いかなる御いのり御造立にも踰なんなど有、知慎かヽること申出んは、品おこえて其恐すくなからねど、かばかりの大善事おいかでやむべきやとおもひて、事のついでに申出侍りぬ、其秋我兄の一子世おはやうせり、又我兄も大にやまひつき給ふ、其折ふし我主知慎に命じて、帝陵の御在所お考へしめ、まさに諸陵に事あらんの御あらましなれば、いそぎ我兄にかくと告奉りぬ、我兄やまひの床にありて手おあはせ、聖君あり、賢佐有、時なる哉、知名死すとも骨朽ざらんと感涙おおとし給ふ、又先考先妣お拝して、其教誨によりて、此心おけふにたもちて、此時にあへりと大によろこび給ふ、知慎心におもふ、此大善事おなす人いかで福寿お得ざらん、疾病平安日おさしてうたがふべからず、且又子孫も出来て必繁茂せんと、心肝に銘じてたのもしかりしに、いく日ならず、八月朔日四十二歳にてうせ給ふ、嗣子さへなくていふかひなき事どもなり、翌年寅の八月に、知慎主命により禁廷にのぼりぬ、援かしこ帝陵お見奉れば、皆草の周垣お新に作れり、人にとへば東武の尊命有てかくのごとし、世に有がたき御事也、国家の御祈禱、又此上有べからず、昨日今日までも、土人等登臨の処として、牛馬に草かひ侍りぬ、まことに今おもへば浅ましき事なりしといふ、さてこそかくやと思ひて、有難きに涙とヾまらざりし、又翌年卯五月、我主君知慎おして、此一冊并一紙おかヽせ給ひて、是なんぢ兄弟のま心より出てかく事ゆきぬ、爾も一通お写して家につたへよ、又我家乗にも書載せよと宣ひぬ、我兄世にまし〳〵なばと思へばとヾまらぬ涙也、さるによりて一通お繕写して、まづ我兄の牌前に供へ、且又我子孫に伝へて此美お残さんと欲す、夫匹夫の志おおこして百王の寝陵におよぶ事、誠に有がたきためし也、もろこしにて陵墓お修せし事、蕭統の文選にのせ、又宋の帝の陵お修補せし胡元の時趙人有、されどもそれは例もかはり、わづかに一二帝のみなりしおだに、万世に伝へて美譚とせり、我兄子孫あらましかばと思ふもはてしなき憾や、今年大和の国宇多の住人我同僚と成侍る、九月廿七日その人のがりまうでけるに語ていへらく、おとヾし帝陵の御たづね有て某も役にさヽれ、大和路の旧蹟悉く巡り侍りしが、神武天皇の陵、畝傍山の東北におはします、田の中にてしる人なかりし、所の民じぶの田(○○○○)とよび侍りき、神武お伝へあやまると見えたり、京兆の命おうけて、土お重ね垣おゆひて、土民近づく事お得ず、其外あまたの陵も皆かくの如し、誠に昭代の御政おほき中にも、是等こそ唐土までも聞えて目出度御事なめりといふ、知慎心の中におもひ合せ侍りぬ、されどことに出すべきことならねば、げにもとのみ雲てやみぬ、かくて暁ちかきころ夢に我兄お見侍るに、其よはひ三十にたらぬほどに見えて、容貌ことにうれしげにうち笑ひ給ふが、忽然として見え給はず、夢心地にまことに世おさり給ひし人也としたはしく悲しかりしが、又しばし有て同じさまに見え給ふが、夢に見奉ることはおほけれども、かくうるはしくよろこばしき有様は侍らず、まさしく是はきのふのくれ、帝陵の御事ども申侍りしお悦給ふならむとおもふに、なつかしき事も又やるかたなし、
 元禄十二己卯歳九月廿八日雨そぼ降日、浅草の郷如意菴の南の窓のもとに識す、
                                細井知慎