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常憲院殿御実紀
三十九
元禄十二年四月廿九日、こヽに本朝元弘建武の大乱以後、古帝王の寝陵荒廃して、其ありかたしかならず、樵牧雉兎の蹊径となりき、然るお数百年おへて修治する事もなし、是一大闕典といふべし、しかるお当代感じ思召旨ありて、この年頃御料は代官、私領は領主に仰ごと下り、あまねく古跡お捜索せしめ、藩籬おまうけ、樵采お禁ぜられしに、この月その事成功せるよし、京職松平紀伊守信庸より注進す、〈◯中略〉すべて神武天皇より後花園院まで百三代、重祚二代〈◯斉明称徳〉と安徳天皇お除きて外、崇神仁賢継体欽明陽成宇多村上花山一条三条後一条後朱雀後冷泉後三条堀河二条六条後深草伏見後伏見崇光称光の廿二陵は、湮没して其跡もさだかならず、現存七十八陵のうち、十二陵は旧垣あり、六十六陵はこたびあらたに表章せられぬ、此外阿波国麻殖郡木屋平山、同国三好郡白地村雲透寺は、後亀山院の御陵なりと申伝へたり、又同郡勢力村天皇屋形山、同国板野郡大寺村金泉寺、同郡里村、淡路国三原郡中島村、津名郡柳沢村ともに七所は、山陵のよしまうし伝ふるといへども、何帝の陵なる事たしかならず、もしくは南朝の陵にもあるべければ、これも垣墻おまうけしむとなり、