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藤田彪手記
天保五年甲午は、将軍家世子家慶公の四十二歳に相当せし年にして、世俗忌み嫌ふ所の厄年なれば、其厄払ひの為めにする所なりとて、大に感応寺といふ寺観お建立して、冥福お修むるよし聞えければ、此時こそ山陵興復の機会なれと思ひ立ち、幕府の老中大久保加賀守忠真に書お贈り、始めて神武陵修築の議お陳べたるは九月十三日なりき、其建議に曰、拙者如きものにては申も憚多候へ共、御当家御至徳之儀は、三分天下有其二、以服事殷と申処には無之、日本国中誰有之、将軍家の御下知お受不申人は一人も無之処、悉く天朝お御尊敬被遊、鎌倉室町等とは格別之御儀に被為在候故、御武運益御長久にて、二百余年の太平お被為保候段、実に偶然ならざる御儀と奉存候、〈◯中略〉此度感応寺御建立之儀などは、西丸様〈◯家慶〉御厄年故にも可有之哉、又は御武運御長久之御祈願にも可有之哉と推察いたし候処、其上にも帝皇始祖之御廟御修被遊候はヾ、ます〳〵御至徳相顕れ、御武運弥御長久に可有御座と存候間、何とぞ京都へ被仰出、御修復被為在候様不堪至願候、日光、両山〈◯寛永寺、増上寺、〉などの御儀と違ひ、古制御斟酌之上、御修被遊候はヾ、格別の御入用も有之間敷哉と奉存候、夫とも公辺にては御故障も御座候はヾ、拙者より公辺へ相願候ては如何可有之哉、鹿島并領中大社の御札、追々差上来り、尚又御厄年等の節は、右之外にも伊勢にて御祈禱為仕差上候類も候へば、為冥加太祖の山陵御修覆為御済にも相成候も、日本史等編修いたし候廉へも相当り、面目無此上事に候、御承知之不経済、莫大の入費も有之事は、所詮不相協候へ共、格別之事にも無之候間、何れとか相弁可申候、神武天皇元年より天保五年迄は、二千四百九十四年、来る子年にて、二千五百年に相成候処、当年は西丸様御厄かた〴〵故、当年より取懸り、子の年には御祭にても被遊、此上皇統の無窮、武運の長久御祈願も被為在候はヾ、実に目出度御事に可有之と存候間、心願之越有りのまヽ相認申進候、御存分御差図の上、何れの道なりとも、心願成就いたし候様、御工風偏に致企望候、御摸様次第別に書取にいたし、家老御宅へ差出候とも可致候、