[p.1090][p.1091][p.1091][p.1091][p.1092]
山海二策

一山陵御改之儀は、如此にも相成候はヾ、可燃哉と一己〈◯徳川斉昭〉の了簡にて認候、図面の覚、〈但し此図面は、加州は勿論、誰へも未見せ不申、全くの了簡にて認置候事故、以後御改にも相成候節は、衆評の上にて、御改に可致事、〉
本文山陵之義は、故実吟味いたし候はヾ、定て色々の説も出可申、第一には久敷打絶候事にて相分申間敷、又常には右様の事穿鑿も有憚、又火急の節に至り候ては、吟味も間に合不申などいふ事にては、いつとても出来可申時なければ、先づ本文の位にもいたし置候て、追々に古例等御たヾしに相成候はヾ可然哉に被存候、神武皇の陵にてさへ機会おのがし候ては六け敷候へば、猶当禁仙洞などの儀は勿論、常に吟味は六け敷、又火急の節はとても吟味間に合不申と申事に成行候半故、神武皇の山陵お取定め置候へば、跡々は右にならひ出来候半と被存候、古例等たとひ分り不申候とも、是は全く申さば上への飾にて、御手厚くさへ出来候はヾ、古例に協不申候とても、先づ不苦様被存候者也、堀
土手
石垣 堀
石垣
松 入口

土手

○此丸印は松也【図】
一山陵は下の石垣は、四方十間四方位、高さは三丈位、中上の石垣は、下の石垣にならひ可然作る、三段の上へは松お植る、山陵廻り土手の上へは忌垣お可作、入口と認候処は、忌垣へ閂さして開く様可作、入口より内は不残石お敷可申、
右山陵之儀に付、神道兼職藤田虎之介へ申聞吟味致せ候処、左之通り也、
山陵之儀、古制に御本づき被遊、石垣堀等にても御築立被遊候尊慮と奉存候処、此間中大和国の地理に拘り候書物類、大抵残りなく吟味仕候処、何れにも神武陵の地所しかと相決し兼申候、先日被仰付候通、七郎衛門〈◯河瀬〉方へ問合候間、近日何と歟申来候儀とは存候へ共、十の八九は分り兼候儀と奉存候、扠疑はしき地所お推量にていよ〳〵こヽと申す様にも罷成兼候故、つまる所疑しき地所一二け所、一と通りのかこひにても被遊、神武陵と申伝候場所故、旅人等入こみ不申様、石表にても御立被遊候外有之間敷、仍而は山陵の御修復は出来兼候故、神武田辺へなりと、橿原の神宮御建立被遊候外無之様奉存候、           藤 田  彪