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嘉永明治年間録
十三
元治元年六月十六日、古来陵墓の不審なるものは、決裁お朝廷に請ひ、妄りに億断お以て定むる事お禁ず、
山陵御修補に付、元来御場所未定の分、此節専ら探索方仰出され候処、兼て異論の御場所、為鑑定穿ち候様有之哉に相聞候、尊重の御場所、一己の存寄お以て勝手拝見のみならず、右様所業お以て窺定候儀、恐懼の至に思召候間、以後異論の御場所は、山陵奉行へ申出、同向々に於て一同立会、篤と敬見遂評議候上にて、弥難決候は朝廷へ被相伺、御差図受候様可致候、今般先帝為御尊崇奉行被仰付候儀に付、都て山稜に拘り候御儀は同向へ申出、差図受候様可致、一己の存寄お以て、妄に山陵へ手お附候儀は、決て不相成候、御尊崇難相立候間、心得違無之様可致候、且又国々皇子皇后等の御墓、其外重き身分の墓、所々右様の類、以後大切相心得、破壊不致様被仰出候、右之趣末々不洩様急度可申達事、
右之通京都より被仰出候間、諸国津々浦々に至る迄、不洩様早々可相触候、