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曲亭雑記
一上
蒲の花かたみ
抑修静庵はもと福田氏、後に其先祖の氏郷朝臣の族より出たりと聞に及て、氏お蒲生に改めけり、〈これらのよしは、墓表に具なればこヽに贅せず、〉名は秀実、一名は夷吾、字は君平、修静はその号、下毛州河内郡宇都宮の人なり、〈◯中略〉修静、九志お編述の志あり、古昔の山陵多く荒廃して、その跡定かならざるもの有と聞こと久しきおもて、まづ山陵志より創んとて、独行して京に赴き、南海お越、淡路に渡るに、素より路費の乏しきお憂とせず、嶮お履み、風雪お犯して、六十六国その半お経歴し、あるは里老に問ひ、或は旧図お考へ、諸陵存亡の趣お目擊したりける、辛苦おその著述の為に辞せず、月日は旅寝に移れども、其志移ずして愈精力お尽しけり、かヽりし程に文化丁卯の年、北虜辺塞お擾るの風聞あり、時に修静江戸にあり、かの事お伝へ聞て、憂ひ且憤に堪ず、即不恤緯五編お著し、上書して之お国老の執事に奉りしに、おほんとり上はなかりけり、とかくする程に、山陵志一巻やうやくに稿お脱て、刻本にせまく欲するに、修静素より担石の儲なければ、同志に告て未刻以前に入銀お促し、且その友鍵屋静斎等が資お借て、製本全く成しかば、之お京師に献り、及関東の搢紳、並に有職の人々にまいらせけり、〈◯中略〉初修静が山陵訪求の為に京に赴きしとき、彼地に絶て識人なし、当時小沢蘆庵は、古学お好みて万葉風の詠歌に名高く、世にすねたる隠逸なりとかねて伝へ聞しかば、渠が助お借らばやとて、その京に入りし日に、やがて蘆庵が宿所お尋て雲雲とおとなふ程に、小沢が家僕出迎へて、いづこよりと問ふ、いひよるよしもなきまヽに、修静まづ佯りて、某は下野なる宇都宮のほとりにて、蒲生伊三郎と呼るヽ者なり、琴お好み候へども、田舎にはよき師なし、主人の翁は琴の妙手にておはするよし、東野の果までかくれなし、是によりおほん弟子にならまく欲して、遥々と来つるにて候といふ、その僕こヽろお得て奥に赴き、雲雲と告にけん、蘆庵は声お高くして、あな無益しき問ごとかな、女出てしか答へよ、主人は久しう客お辞して交お絶たれば、都の中だにも親しう物せるは希なり、琴は若かりし時掻鳴したりけるお、あちこちの人に知られて、彼に聴せよ、此に教よといはるヽがうるさければ、近ごろ打摧きて薪に代たり、かヽれば所望にしたがふべくもあらず、他に行て求めたまへといふ声の、むし襖一重お隔て定かにぞ聞えける、修静は僕が報るに及て、そがしか〴〵といふおしもまたず、更に又推かへして雲、翁のおほん答はこヽにもつばらに漏聞たり、某猶一言あり、願は枉て聞たまへ、吾は下野なる儒者なり、雲々の志願あれば、屡江戸に遊学し、こたみ都に上りしかども、相識れる者絶てなし、翁の古学お好みたまふと、その気質の俗ならぬは、かねて伝聞ものから、いひよるよしのなきまヽに、琴お学ん為にとて来つるとはいひし也、こは長者お欺くに似たれども、その虚言は已ことお得ざりし実情より出たれば、許されて対面せられば、肝胆お吐き、志願お告て、翁の資お借らんと欲す、かくても意に称はずば退けられんこと勿論たるべし、今一たび和殿お労さん、此由執次たまへといふ、蘆庵もこれお洩聞て、さりとは思ひがけざりき、そは奇しき客人なり、対面せずば悔しきことあらん、こなたへと申せとて、やがて面おあはしけり、修静ふかく歓びて、夙くより思ひ起せし志願の由お説示し、山陵志著述の為に、古き御陵お尋んとて、旅寐おしつることの趣雲雲とかたりいづるに、蘆庵も隻管感歎して、足下は得がたき学士なり、さる志ならんには吾庵に杖おとヾめて、こヽらわたりの御陵おしづかに訪求したまへとて、又他事もなくもてなしけり、これにより修静は日毎に古陵お尋巡に、ともすれば日暮て帰るお、主人は自ら風呂お焚て浴させぬる老人の心づかひお胸苦しとて辞とも従はず、これ等の事は、隻管に客お愛する故のみならず、吾も亦かヽる奇人に宿することの歓しさに、足下の疲労お慰て、恙なかれと思ふよしは、国の為に力お竭す人の助にならんとてなり、必辞退したまふなとて、後々までも然かしてけり、