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立坊立后記
天和二年十二月六日、当今〈◯霊元〉の女御藤房子〈◯鷹司教平女〉准后宣下あり、上卿は勧修寺大納言経慶、弁は小河坊城蔵人正五位上俊方、奉行は油小路右頭中将隆真なり、同三年二月十四日立后の片節会お行はる、内弁は鷹司右大臣兼熙、外弁は葉室大納言頼孝、勧修寺大納言経慶、今出川中納言伊季、兼宣命使正親町中納言公通、七条参議隆豊、庭田参議重条、奉行は清閑寺弁熙定、少納言は石井行豊なり、中宮職大夫は従二位藤原朝臣実通兼之、権大夫は正三位西園寺中納言兼敦兼之、亮は高倉従四位上藤原朝臣永福兼之、権亮は大炊御門従四位上藤原朝臣信名兼之、但依所労、広幡左中将豊忠代之、大進は小河坊城正五位上藤原朝臣俊方兼之、権大進は交野弾正少弼従五位上平朝臣時香、少進は豊岡従五位上侍従藤原朝臣弘昌兼之、権少進慈光寺正六位源朝臣宣仲兼之、大属は従五位下中原朝臣職永、少属は正五位下賀茂県主有顕、権少属は従六位下宗岡朝臣信行也、六日辰刻出仕、除目の執筆於御前、鷹司兼熙勤之、陣頭にては庭田重条勤之、硯は外記の硯お用ゆ、墨お磨るに故実あり、未の上刻一会事終て、各中宮の殿へ参向、東福門院立后の節会ありけれども、諸式此度の如くには不調、催馬楽は、寛永年中、二条行幸の時ありける以後の事也、御椅子御履氈代鎮子大床子の御膳、并切台盤等は出納より調進なり、〈◯中略〉催馬楽の役人、歌物は綾小路俊景、并持明院基時、琵琶は今出川伊季、花園公晴、琴は白川雅元、和琴は四辻公韶なり、地下楽人六人階下に候す、笛は上越後、山井近江、笙豊主殿、園淡路守、篳篥は東儀左衛門、窪甲斐也、三方より三人宛出座お望申せども、二条行幸の時の楽人の位階に合せて、用之給ふと聞えし、庭上にて賜禄、大褂衣は白き袷の如き物なり、関白殿下へは五位人役送し、それお家の諸大夫に遣す、是お殿下の一覧に入て引之なり、殿下以下は五位役送して、直に其人に渡す、始め小袖の領の方お右の方にして出して、渡すときは左の方にとりなほし渡す、直に請取、左の肩にかけて退出なり、
 立后次第、〈委在別冊〉
 本宮次第〈委在別冊〉
◯按ずるに、別冊所載の立后次第、本宮次第は上文引載の江家次第と粗同じければ略す、本御膳 御椅子 箸に双匕大小に 馬頭盤 土器 御菜 御菜 御菜
散花取土器 陪膳人散花お取て、其後に御飯の上に竹箸お一双建て、末お如是折かく、
此大床子の御膳四脚、内は〓黒塗連子の如く、しげくさんお打つ、縁はうるみ朱塗、一方に獅子の如くなる物向合て居る、紋二つ宛あり、凡紋四角なるものは惣て筥形と雲、丸きお蛮絵と雲、南蛮の獣などの蟠る形お画により蛮絵と雲か、此御膳にあるも、異国の獣、螺鈿にしてあり、此本膳は横にすえて常なり、二の膳は竪にすえ、此供物は高橋肥前、并に浜島内膳各調進【図】