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続世継
一星合
中宮、〈◯後朱雀后藤原嫄子、中略、〉又のとしもおなじやうにまかり出させ給て、丹後守ゆきたふのぬしの家にて、長暦三年八月十九日、猶女宮〈◯禖子〉うみ奉り給て、おなじき廿八日にうせ給にき、御年廿四、あさましくあはれなる事かぎりなし、いとヾ秋のあはれそひて、有明の月のかげも心おいたましむるいろ、ゆふべの露のしげきも涙お催すつまなるべし、かくて九月九日に、うちより故中宮の御為に、七寺にみず経せさせ給ふ、みかど(○○○)〈◯後朱雀〉御ぶく奉りて(○○○○○○)、廃朝とて清涼殿のみすおろしこめられ(○○○○○○○○○○○○○○○○○)、日のおもの参るも(○○○○○○○○)、こえたてヽそうしなどすることもせず(○○○○○○○○○○○○○○○○○)、よろづしめりたるままには、ゆふべのほたるおもあはれとながめさせ給、秋のともし火かヽげつくさせ給つヽぞ、心くるしき折ふしなりけるに、廿日ぞ解陣とかいひて、よろづれいざまにて、御殿のみすなどもまきあげられ、すこしはるヽけしきなりけれど、なほ御けしきはつきせずぞみえさせ給ける、神無月もすぎぬれば、御いみ末になりて、かのうせ給にし宮にて御仏事あり、〈◯中略〉しも月の七日ぞ、内にははじめてまつりごとせさせ給、〈◯中略〉又のとし〈◯長久元年〉の七月七日、関白殿〈◯嫄子養父藤原頼通〉に、うちより御せうそこありて、
 こぞのけふわかれし星もあひぬなりなどたぐひなき我身なるらん、とよませ給て侍りけんこそ、いとかたじけなくなさけおほくおはしましける御事かなとうけたまはりしか、