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栄花物語
二十九玉の飾
三月八日よりなやませ給て、万寿四年九月十四日のさるの時にうせさせ給ひぬ、〈◯妍子、中略、〉一品宮〈◯三条皇女禎子内親王〉御ぶくやつれ、いとあはれに心ぐるしう絵にもかヽまほしうおはします、女房みやづかさなど、皆いとくろましたり、さぶらひの人々は、さすがにこきかぎり、きぬはかまにて冠おばしたる、〈◯中略〉五七日にもならせ給ぬれば、日ごろつくらせ給へる、五丈尊一万の不動尊供養したてまつらせ給、その頃はあしき御ものヽけどもにてうせさせ給ぬれば、仏道さまたげにやとて、今にたヾ極楽へとのみ御心ざしなりけり、講師には、けうえん法橋、いといみじうつかまつる、殿のうへの御前〈◯藤原道長妻倫子、妍子母、〉などいみじうなかせ給、女房など、あなかたはらいたと思ふまでなけば、講師はあきれつヽおやみがちなり、御法事は十月廿八日とさだめさせ給へり、それにはしろがねの御ぐどもして、阿弥陀の三尊おぞつくり奉らせ給ける、〈◯中略〉御法事の僧の法服、御誦経のれうの御ぞの事、染殿にも、おほかたの人々もいそぎみちたり、かヽる程にはかなくて廿七日になりぬれば、阿弥陀堂に荘厳御しつらひなどせさせ給ふ、まだあかつきに、とのヽうへの御まへ、一品宮ひとつ御車にてわたらせおはします、とのヽ御方宮など、女房車廿ばかりあり、宮の女房こたみばかりのみやづかへとおもふに残りなく参りたり、万まだくらき程にておぼつかなければ、くはしくかきあらためず、おはしましつきて、此堂の北の方の廊におりさせ給ふ、あかくなるに見れば御まへよりはじめ、みな墨染におはしましあふに、いとヾかなし、よろづしたてヽひつじの時ばかりに事はじまる、所々の御誦経ども、庭のおもて見えぬまで、池のきはに出してつみわたしたり、殿の御まへ、〈◯藤原道長〉女院、〈◯一条后上東門院彰子、妍子姉、〉中納言、関白殿、〈◯藤原頼通〉つぎ〳〵の殿ばら、一品宮みやづかさどもしもべまで、かたじきなきまで、つかうまつることかたはらいたし、女房の御誦経、みなきぬおぞつヽみてつかうまつる、御誦経に御装束二くだりなり、れいの御装束に、またあまの御装束、ひるのにてせさせ給へり、〈◯中略〉ほとけは、このつくらせ給へる阿弥陀の三尊、御経のほどおしはかるべし、講師などの申つヾけ給ふありさま、中々なる物まねびなればかヽず、