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源平盛衰記
二十六
祇園女御事
古人の申けるは、清盛は忠盛が子には非、白川院の御子也、其故は彼帝〈◯白河〉感神院お信じ御坐て、常に御幸ぞ有ける、或時祇園の西大門の大路に、小家の女の怪が水汲桶お戴て、麻の狭衣のつまお挙つヽ、幹(ほづヽ)に桶お居置て御幸お奉拝、帝御目に懸る御事有ければ、還御の後彼女お宮中に被召て、常に玉体に近づき進せけり、祇園社の巽に当て御所お造て被居たり、公卿殿上人重き人に奉思て祇園女御とぞ申ける、角て年比お経る程に、小夜深人定て御つれ〴〵に思召出させ給て、祇園の女御へ御幸あり、
◯按ずるに、吾妻鏡正治元年八月十九日の条に、鳥羽院御寵祇園女御とあり、恐くは誤ならん、