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平家物語

あふひのまへの事
それに何より又哀なりし事には、中宮の御方に候はれける女房の召仕ひける上童、思はざる外竜顔〈◯高倉〉にしせきする事ありけり、たヾ世のつねあからさまにてもなくして、まめやかに御心ざし深かりければ、主の女房も召つかはず、却て主のごとくにぞいつきもてなしける、〈◯中略〉此人女御きさきとももてなされ、こくも仙院ともあおがれなんずとて、其名お葵の前と申ければ、内にはあふひ女御などぞさヽやきあはれける、主上は是おきこしめして、その後はめさヾりけり、是は御心ざしの尽ぬるにはあらず、隻世のそしりおはヾからせ給ふによつてなり、されば御ながめがちにて、つや〳〵供御もきこしめさず、御悩とて常は夜のおとヾにのみ入らせおはします、其の時の関白松殿〈◯基房〉此よし承りて、主上御心つきぬる事こそおはすなれ、申なぐさめ参らせんとて、急ぎ御参内ありて、さやうにえい慮に懸らせましまさんにおいては何条事か候べき、件の女房召れ参らすべしと覚え候、しな尋ねらるヽに及ばず、其房やがて猶子に仕候はんと奏せさせ給へば、主上仰せ有けるは、いざとよそこにはからひ申もさる事なれども、位おすべつて後はまヽさる例もあるなり、まさしう在位の時、さやうの事は後代のそしり成べしとて、聞召も入れざりければ、関白殿力およばせ給はず、御涙おおさへて御退出ありけり、其後主上緑のうすえうの匂ひことに深かりけるに、古き事なれども思召出て、かうぞあそばされける、
 忍れど色にいでにけり我こひはものやおもふと人のとふまで、冷泉の少将たかふさ、是お賜はりついで、件のあふひの前にたばせたれば、是お取て懐に入れ、かほ打あかめ、例ならぬ心ち出来たりとてさとへ帰り、打ふす事五六日にして、終にはかなく成にけり、君が一日の恩の為に、妾が百年の身おあやまつとも、かやうの事おや申べき、