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平家物語

小がうの事
主上〈◯高倉〉は、れんぼの御涙に思召しづませ給ひたるお、申慰め参らせんとて、中宮の御方より、小督と申女房おまいらせらる、そも此女房と申は、桜町の中納言しげのりの卿のむすめ、禁中一の美人、ならびなき琴の上手にてぞまし〳〵ける、冷泉の大納言たかふさ卿未だ少将なりし時、見そめたりし女房なり、〈◯中略〉入道相国〈◯平清盛〉此よしお伝聞給ひて、中宮と申も御娘、〈◯徳子〉冷泉の少将も又婿なり、小がうの殿に二人の婿お取られては、世の中よかるまじ、いかにもして小がうの殿お召出、いて失なはんとぞ宣ひける、小督此よしお聞給ひて、我身の上はとにもかくにも成なん、君の御為御心ぐるしと思はれければ、或夜内裏おばまぎれ出て、行へもしらずぞ失られける、主上御歎き斜ならず、昼はよるのおとヾにのみ入せ給ひて御涙にしづませおはします、夜は南殿に出御成て、月の光お御覧じてぞ慰ませまし〳〵ける、入道相国此よしお承つて、扠は君は小督ゆえにおぼし召しづませ給ひたんなり、さらんに取てはとて、御かいしやくの女房達おも参らせられず、参内し給ふ人々もそねまれければ、入道の権威に憚かつて参り通ふ臣下もなし、男女打ひそめて禁中忌々しうぞ見えし、頃は八月十日あまりの事なれば、さしもくまなき空なれども、主上は御涙にくもらせ給ひて、月の光もおぼろにぞ御覧ぜられける、やヽ深更に及んで、人やある人やあるとめされけれども、御いらへ申者もなし、稍あつて弾正の大ひつ仲国、その夜しも御宿直に参りて遥に遠う候ひけるが、仲国と御いらへ申す、女ちかう参れ、仰下さるべき旨ありと仰せければ、何事やらんと思ひ、御前ちかうぞ参じたる、女若小がうがゆくへや知たると仰ければ、争かしり参らせ候べきと申す、誠や小がうは嵯峨の辺、かた折戸とかやしたる内にあると申者のあるぞとよ、あるじが名おばしらずとも、尋て参らせてんやと仰ければ、仲国あるじが名お知り候はでは、争か尋ねあひ参らせ候べきと申ければ、主上げにもとて御涙せきあへさせましまさず、仲国つく〴〵物お案ずるに、誠や小督の殿は琴ひき給ひしぞかし、此月の明さに君の御事思ひ出参らせて、琴引給はぬ事はよもあらじ、内裏にて琴ひき給ひしとき、仲国笛の役にめされ参らせしかば、其琴の音はいづくにても聞しらんずる物お、嵯峨の在家いく程かあらん、打廻てたづねんに、などか聞出さであるべきと思ひ、左候はヾあるじが名はしらず候とも、たづね参らせ候べき、たとひ尋ねあひまいらせて候とも、御書など候はずば、うはの空とや思召れ候はんずらん、御書お賜つて参り候はんと申ければ、主上げにもとて、頓て御書おあそばいてぞ下されける、寮の御馬に乗てゆけと仰ければ、仲国れうの御馬賜はつて、明月にむちおあげ、西おさしてぞあゆませける、小鹿なく此山里とえいじけん、嵯峨のあたりの秋のころ、さこそはあはれにも覚えけめ、かた折戸したる屋お見付ては、此内にもやおはすらんと、扣々聞けれども、琴ひく所はなかりけり、御だうなどへも参り給へる事もやと、しやか堂おはじめて、堂々見まはれども、小督のとのに似たる女房だにもなかりけり、空しう帰り参りたらんは、参らざらんより中々悪かるべし、是よりいづちへも迷ひ行ばやとは思へどもいづくか王地ならぬ、身おかくすべき宿もなし、いかヾせんとあんじわづらふ、誠や法輪は程近ければ、月の光にさそはれて参り給へる事もやと、そなたへ向ひてぞあくがれける、亀山のあたり近く松のあるかたに、幽に琴ぞ聞えける、峯の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か、覚束なくは思へども、駒おはやめて行程に、かた折戸したる内に琴おぞ引すまされたる、ひかへて是お聞ければ、少もまがふべうもなく、小督のとのヽつまおとなり、楽は何ぞと聞ければ、夫お想てこふとよむ想夫恋といふ楽なりけり、仲国さればこそ、君の御事思ひ出参らせて、楽こそ多けれ、此がくおひき給ふ事のやさしさよと思ひ、こしよりやうでうぬきいだし、ちつとならひて門おほと〳〵とたヽけば、琴おばひきやみ給ひぬ、是は内裏より仲国が御使に参りて候、あけさせ給へとてたヽけども〳〵、とがむるものもなかりけり、漸あつて内より人の出るおとしけり、うれしう思ひて待つ所に、ぢやうおはづし、門おほそめにあけ、いたいけしたる小女房のかほばかりさし出て、是はさやうに内裏より御使など給はるべき所でも侍らはず、若かどたがへてぞ侍らふらんといひければ、仲国へんじせば、門たてられ、ぢやうさヽれなんずとやおもひけん、ぜひなく押あけてぞ入にける、つま戸の際なるえんに居て、何とてかやうの所に御わたり候やらん、君は御ゆえに思召しづませ給ひて、御命も既に危くこそ見えさせまし〳〵候へ、かやうに申さばうはのそらとや覚召れ候らん、御書お賜りて候とて取出て奉る、ありつる女房とりついで、小督のとのにぞ参らせける、是おあけて見給ふに、誠に君の御書にてぞありける、頓て御返書かいて引むすび、女房の装束一かさねそへてぞ出されたる、仲国御返事のうへは、とかう申に及び候はねども、別の御使にても候はヾこそ、直の御返事うけ給はちでは、争か帰り参り候べきと申ければ、小督のとのげにもとや思れけん、みづから返事し給ひけり、そこにも聞給ひつらんやうに、入道あまりにおそろしき事おのみ申と聞しが浅ましさに、或夜ひそかに忍びつヽ内裏おばまぎれ出て、今はかヽる所の住ひなれば、琴ひく事もなかりしが、明日より大原のおくへ思ひ立事の侍らへば、主の女房こよひばかりの名残おおしみ、今は夜もふけぬ立聞人もあらじなどすヽむる間、さぞなむかしの名残もさすがにゆかしくて、手なれし琴おひくほどに、やすうも聞出されけりとて、御涙せきあへ給はねば、仲国もそヾろに袖おしぼりける、やヽあつて仲国涙おおさへて申けるは、明日より大原のおくへ思し召立事と候は、定めて御様などもや替させ給ひ候はんずらん、然るべうも候はず、扠君おば何とかし参らせ給ふべき、努々かなひ候まじ、相かまへて此女房出し参らすなとて、ともに召ぐしたる馬部吉上など留めおき、そのやお守護せさせ、我身は寮の御馬に打乗て、内裏へかへり参つたれば、夜はほの〴〵とぞ明にける、仲国やがてれうの御馬つながせ、女房のしやうぞくおば、はね馬の障子に打かけて、今は定めて御寝もなりつらん、誰してか申べきと思ひ、南殿おさして参るほどに、主上はいまだ夕べの御座にぞまし〳〵ける、南にかけり北にむかふ、かんうんお秋のかりにつけがたし、東に出で西にながる、たヾせんばうおあかつきの月によすと、御心ぼそげに打ながめさせ給ふ所に、仲国つと参りつヽ、小督のとのヽ御返事おこそ参らせけれ、主上斜ならずに御感あつて、さらば女やがて夕さりぐして参れとぞ仰ける、仲国、入道相国のかへり聞給はん所は恐ろしけれども、これ又勅定なれば人に車かつて嵯峨へ行向ふ、小督のとの参るまじき由宣へども、やう〳〵にこしらへ奉りて、車にのせ奉りて、内裏へ参りたりければ、幽なる所に忍ばせて、夜な夜な召れ参らせける程に、ひめ宮御一所出来させ給ひけり、坊門の女院、〈◯土御門准母範子〉とは此みやの御事なり、入道相国小督が失たりといふは、跡かたもなきそらごとなり、いかにもして失はんと宣ひけるが、何としてかたばかり出されたりけん、小督のとのおとらへつヽ、尼になしてぞ追放たる、年廿三、出家はもとより望みなりけれども、心ならず尼になされ、こき墨染にやつれはて、嵯峨のおくにぞすまれける、無下にうたてき事どもなり、主上はかやうの事どもに御なうつかせ給ひて、終にかくれさせ給ひけるとかや、