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輪池叢書
公事
立坊の式、後光厳院より十五代中絶にて、天和三年に再興せさせ給ひしとぞ、〈◯中略〉天和三年立坊記に雲、立坊の儀式御執行あるべきとの御沙汰あり、然れども、近世親王宣下の儀のみにて事すみ、立坊の式は、崇光院より至隻今十四代、二百余年余絶たる事也、故文献不足徴、諸家共考らるべき記なし、伏見殿に、崇光院の御時立坊式、并親王の御衣とて、則崇光院御著用、所々虫ばみの跡あるもの、笋刀は不及申、及天皇元服の時、自南殿清涼殿へ入御の時、御著用の空頂黒幘等の物まで存す、其上冊命立坊記、万一録など雲る旧記あり、其に従ひ考らるヽ時に大礼の儀式粗備れり、主上悉叡覧あり、伏見殿へ大に御感の勅諚ありしと聞ゆ、既にして陰陽家に命じ玉ひ、日時の勘文お奉べきとの勅定なり、於茲天和三年春二月九日に極りぬ、