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槐記
享保十四年九月四日、晩参候、東宮立坊の節、滋野井より、坊官の者の表文等には臣と称して苦しからぬことにや、但し臣とは称すまじきことやと問はる、令の集解東宮坊官の人臣と称すべきこと、唐朝の礼なる由記せり、唐朝のものにも略出せり、宋朝以后の書には見当らねども、日本の礼は唐礼お専らとすることなれば、臣と称して全くあやまりならずと仰遣はされしが、物は何にても広く見べきこと也、此頃賓退録の中に、宋朝太子の臣と称することお許されず、それよりして春宮の坊官お臣と称することお廃せられたりと記せり、これにて唐朝にて用たることいよ〳〵慥なり、かやうのことほど面白きことはなし、こちらから合せず、あちらから合ふことにあらざれば本のことに非ず、宋朝に廃せられたるにて、唐礼のたしかなるお日本には用ゆ、集解もそれお載られたり、是等のことども近き書なれば御覧あるべけれども、其不審なき時は徒に看過なりと、地下に此ことのありたる故にひとしほに思召お、滋野井に仰遣はされたらば、何ほどか嬉しかるべし、未だ仰つかはされぬと仰らる、