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古事記伝
二十六
三王負太子之名とは、是上代の常なり、抑上つ御代々々に日嗣御子と申せるは、皇子たちの中に、取分て尊崇めて殊なるさまに定め賜へる物にて、其は必しも一柱には限らず、或は二柱三柱も坐しことなり、〈まづは皇后の御腹の御兄、さては殊なる由ある皇子たちなり、〉かくて御位は、必其日嗣御子の中なるぞ継坐ける、〈◯中略〉いで其証お具に雲むには、先葺不合命の御子たち四柱の中に、五瀬命と、若御毛沼命〈神武天皇〉と二柱太子に坐けむこと、又神武天皇の太子は、神八井耳命と、神沼河耳命〈妥靖天皇〉と二柱にて坐しこと、共に彼御段に委く弁へたるが如し、次に書紀崇神巻に、四十八年豊城命と、活目命〈垂仁天皇〉と二柱の内お、御夢に因て、嗣に定賜へるも、元来此二柱太子に坐るが故なり、次に垂仁巻に卅年、天皇詔五十瓊敷命、大足彦尊曰、女等雲々とある、此も此二柱太子に坐しが故なり、〈若然らずば、いかでか此二柱に限りて此詔あらむ、五十瓊敷命の御墓、諸陵式に載て、後まで祭賜ふおも思ふべし、〉次に応神巻に、四十年天皇召大山守命、大鷦鷯尊問之曰雲々とある、是又此二柱も宇遅稚郎子と共に三柱、元より太子に坐が故なり、故其より前二十八年の処にも、太子莬道稚郎子と記され、仁徳巻には、初天皇生日、木菟入于産殿雲々、則取鷦鷯名以名太子曰大鷦鷯皇子と見え、此記明宮段にも、太子大雀命、姓氏録〈雀部朝臣条〉にも、応神御世皇太子大鷦鷯尊とあり、此ら皆上代よりの伝言の随に記せる文なり、又宇遅若郎子の、帝位お固く大雀命に譲避賜ひしも、大雀命は御兄にて共に太子に坐が故なるおや、