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水鏡
下光仁
寳亀四年正月十四日に、山部親王の、中務卿と申ておはせし、東宮にたち給ふ、〈◯中略〉大臣以下御門に申ていはく、まうけの君(○○○○○)はしばしもおはせずしてあるべき事ならず、すみやかにたて奉り給へと申しかば、御門たれおか立べきとの給はせしかば、百川すヽみて、第一御子山部親王おたて申給ふべしと申き、〈◯中略〉浜成申ていはく、山部親王は御母いやしくおはす(○○○○○○○○○)いかでか位につき給はんと申しかば、御門まことにさる事也、酒人内親王おたて申さんとのたまひき、浜成又申ていはく、第二御子薭田親王御母いやしからず、此親王こそたち給ふべけれと申しお、百川目おいからかし、大刀おひきくつろぎて、浜成おのりていはく、位につき給ふ人、さらに母のいやしきたふときおえらぶべからず、山部親王は御心めでたく、世の人も皆したがひたてまつる心あり、浜成申事道理にあらず、我命おもおしみ侍らず、又二心なし、隻はやくみかどの御ことわりおかうぶり侍らんとせめ申しかば、みかどともかくものたまはで、立て内へ入給ひにき、百川此事おうけたまはりきらむとて、はおくひしばりて、少しもねぶらずして、四十余日たてりき、みかど百川が心のつよくゆるがざる事お御覧じて、さらばとく山部親王の立べきにこそと、しぶ〳〵に仰出し給ひしお、御ことばいまだおはらざりしに、庭におりて手お打よろこぶ声、おびたヾしく高くして、人々皆おどろきさわぎ、百川やがてつかさづかさおめして、山部親王の御許へたてまつりて、太子にたてまつりにき、