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武徳編年集成
四十八
慶長五年十二月十二日、当今〈◯後陽成〉第二の皇子、政仁親王〈◯後水尾〉儲王に定めらる、御母近衛殿信尹公の女也、当今御愛君にて、最初皇太子たるべき所、菊亭右大臣晴季公、徳善院玄以と匹議し、大閤秀吉へ告げ、第一の皇子良仁親王〈母は中山大納言親総卿の女〉お皇太子に立らる、元より此事叡慮に応ぜざる故、頃日近臣お以て、神君〈◯家康〉へ密詔あり、神君曰、凡子お知る事父に如はなし、臣も亦男子多しと雖ども、継嗣たる事臣が心に在るのみ、第一第二の皇子の内、皇太子たらん事、熟れ成とも叡慮に任せらるべし、殊に政仁親王、母君貴き上は、猶更然るべしと奏せられければ、大に叡感有て、此御沙汰に及ぶと雲雲、
◯按ずるに、皇子お太子とせられし例は、此他にも猶多けれど略す、