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平家物語

名とらの事
むかし文徳天皇、天安二年八月廿三日かくれさせ給ひぬ、御子の宮たちあまた御位にのぞみおかけてまし〳〵ければ、内々御祈共有けり、一の御子これたかの親王おば、木はらの皇子共申き、王者の才量お御心にかけ、四かいの安危たな心の中にてらし、百王のりらんは御心にかけ給へり、されば賢聖の名おも取せまし〳〵ぬべき君なりと見え給へり、二の宮これ仁の親王は、其頃のしつへい忠仁公の御娘、そめ殿の后〈◯明子〉の御はら也、一門の公卿べつしてもてなし奉らせ給ひしかば、是も又さしおきがたき御事也、かれはしゆ文けいていのきりやう有、是は万機補佐の臣さう有、かれもこれもいたはしくて、いづれも思召わづらはれき、一の御子これたかの親王家の御祈には、柿の本の紀僧正しんせいとて、東寺の一の長者弘法大師の御弟子也、二の宮これ仁親王家の御祈には、外祖忠仁公の御ぢ僧、ひえい山のえりやう和尚ぞうけ給はられける、何もおとらぬ高そうたち也、とみに事行がたうや有んずらん、人々内々さゝやき合れけり、あんのごとく御門かくれさせ給ひしかば、公卿せんぎ有けり、抑臣らがおもんはかりおもつてえらんで位につけ奉らん事、ようしやわたくし有ににたり、万人唇お返すべし、しらずけい馬すまふのせつおとげ、其うんおしり、しゆうによつてほうそおさづけ奉るべしと議定おはんぬ、去程に同じき九月二日の日、二人のみや達うこんのばゝへ行啓有けり、〈◯中略〉しんせい僧正は東寺にだんおたて、えりやう和尚は大内のしんごんいんにだんおたていのられけるが、えりやうはうせたりといふひろうおなさば、しんせい僧正すこしたゆむ心もやおはすらんとて、えりやうはうせたりといふひろうおなして、かんたんおくだいていのられけり、すでに十ばんのけいばはじまる、はじめ四ばんは一の御子これたか親王家かたせ給ふ、後六ばんは二の宮これ仁親王家かたせ給ふ、やがてすまふのせつ有べしとて、一の御子これたか親王家よりは、なとらのう兵衛のかみとて、およそ六十人が力あらはしたるゆゝしき人お出されたり、二の宮これ仁親王家よりは、よしおの少将とて、せいちいさうたへにして、かた手にあふべし共見えぬ人、御むさうの御つげ有とて、申うけてぞ出られける、去程に名とらよしおよりあひて、ひし〳〵とつまどりしてのきにけり、しばらく有てなとらつとより、よしおゝ取てさゝげ、二丈ばかりぞなげ上たる、たゞなほつてたおれず、よしお又つとより、なとらお取てふせんとす、され共なとらは大のおとこかさにまはる、よしお猶あぶなう見えければ、御母儀そめ殿の后より、御つかひくしのはのごとくにしげうはしりかさなつて、御かたすでにまけいろに見ゆ、いかゞせんと仰ければ、えりやう和尚は大いとくのほうお行はれけるが、こは心うき事なりとて、とつこおもつてかうべおつきやぶり、なづきおくだしにうにわしてごまにたき、くろけぶりお立て一もみもまれたりければ、よしおすまふにかちにけり、二の宮位につかせ給ふ、清和の帝是也、後には水のおの天皇と申き、其よりして山門にはいさゝかの事にも、えりやうなづきおくだけば、二帝位につき、そんいちけんおふつしかば、菅相納受し給ふ共つたへたり、是のみや法力にても有けん、其外は皆天照大神の御はからひ也とぞみえたりける、