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大鏡
三左大臣師尹
一のみこ敦明親王とて、式部卿と申し程に、長和五年正月廿九日、三条院おりさせ給へば、たうだい〈◯後一条〉位につかせ給ひて、この式部卿の宮東宮にたゝせ給ひにき、〈◯中略〉院〈◯三条〉うせさせ給ひてのち、二年ばかりありて、いかゞ思召けん、宮たちと申しゝおり、よろづにあそびならはせ給ひて、うるはしき御ありさまいとくるしく、いかでかくてあらばやとおぼしならひて、皇后宮〈◯三条后娀子、敦明母〉にかくなんおぼえ侍ると申させ給ふお、いかでかはげにさもとはおぼさんずる、すべてあさましくあるまじきことゝのみいさめ申させ給ふに、おぼしあまりて入道殿〈◯藤原道長〉に御消息ありければ、まいらせ給へるに御物がたりこまやかにて、此位さりてたゞ心やすくてあらんとなん思ひ侍ると聞えさせければ、さらに〳〵うけたまはらじ、さは三条院の御すえはたえねとおぼしめしおきてさせ給ふか、いとあさましくかなしき御事なり、かゝる御心のつかせ給ふ御事はこと事ならじ、古冷泉院の御ものゝけなどのおもはせたてまつるなり、さらさら〈◯さらさらはさなの誤ならん〉おぼしめしそとせいし給ふに、さらばたゞ本意もあり、出家にこそはあんなれとのたまはするに、さまでおぼしめす事ならばいかゞはともかくも申さん、うちに奏し侍りておと申させ給ふおりにぞ、御けしきいとよくならせ給ひにける、さて、殿うちにまいらせ給ひて、大宮にもうちにも申させ給ひけれは、いかゞはきかせ給ひけん、このたびの東宮には式部卿の宮〈◯敦康親王〉ほと〈◯ほとはおとの誤ならん〉こそはおぼしめすべけれど、一条院のはか〴〵しき御うしろみなければ、東宮にたうだいおたてたてまつるなりとおほせられしかば、これもおなじ事なりとおぼしさだめて、寛仁元年丁巳八月五日こそは九さいにて、三宮〈◯後朱雀〉東宮にたゝせ給ひて、〈◯中略〉寛仁三年己未八月廿八日、御とし十一にて御元服せさせ給ひしか、さきの春宮〈◯敦明〉おば小一条院と申、〈◯中略〉小一条院わが御心もてのがれ給へる事はこれおはじめとす、〈◯中略〉この院のかくおぼしたちぬる事、かつは殿下の御報のはやくおはしますにおされ給へるか、又おほくは元方民部卿の霊のつかうまつりつるなり、〈◯中略〉事のやうだいは、三条院のおはしましけるかぎりこそあれ、うせ給ひにけるのちは、よのつねの東宮の御やうにもなく、殿上人などまいりて御あそびせさせ給ふや、もてなしかしづき申人などもなく、いとつれ〴〵にまぎるゝかたなくおぼしめされけるまゝに、心やすかりし御ありさまのみ恋しく、ほけ〴〵しきまでおぼえさせ給ひけれど、三条院おはしましつるかぎりは、院殿上入などもまいりや、御つかひもしげくまいりかよひなんどするに、人目もしげく、よろづなぐさめさせ給ふお、院うせおはしましては、世中ものおそろしく、おほぢの往来もいかゞとのみわづらはしくふるまひにくきにより、宮司などだにもまいりつかうまつる事もかたくなりゆけば、ましてげすの心はいかゞはあらん、とのもりづかさのしもべもあさぎよめつかうまつる事もなければ、庭のくさもしげりまさりつゝ、いとかたじけなき御すみかにておはします、まれ〳〵参りよる人々は、よにきこゆる事とて、三宮かくておはしますお心ぐるしく、殿も大宮〈◯上東門院〉も思ひ申させ給ふに、もしうちにおとこ宮もいでおはしましなばいかゞあらん、さあらぬさきに東宮にたてたてまつらばやとなんおほせらるなり、さればおしてとられさせ給へるなりなどのみ申お、まことにしもあらざらめど、げに事のさまもよもとおぼゆまじげなればにや、きかせ給ふ御心ちはいとゞうきたちたるやうにおぼしめされて、ひたぶるにとられんよりはわれとやのきなましとおぼしめすに、、又たか松どのゝみくしげ殿まいらせ給ひて、殿のはなやかにもてなしたてまつらせ給ふべかなりとて、れいの事なればよの人さま〴〵さだめ申お、皇后宮きかせ給ひていみじうよろこばせ給ふお、東宮はいとよかるべき事なれど、さだにあらばいとゞ我おもふ事えせじ、なほかくてえあるまじくおぼしめされて、御母宮にしか〴〵なんおもふと聞えさせ給へば、さうなりやいと〳〵あるまじき御事なり、見くしげどのゝ御ことおこそまことならばすゝみきこえさせ給はめ、さらに〳〵おほしめしよるまじき事なりと聞えさせたまひて、御もののけのするなりと御いのりどもせさせ給へど、さらにおぼしめしとゞまらぬ御心のうちお、いかでかよひともきゝけん、〈◯中略〉さて東宮はつひにおぼしめしたちぬ、〈◯中略〉皇后宮にもかくとも申させ給はず、たゞ御心のまゝに殿に御せうそく聞えんとおぼしめすに、むつましうさるべき人もものし給はねば、中宮の権大夫殿のおはします、四条の坊門とにしの洞院とは宮ちかきぞかし、そればかりおこと人よりはとやおぼしめしよりけん蔵人なにがしお御つかひにてあからさまにまいらせ給へとあるお、〈◯中略〉まいらせ給ふほど日もくれぬ、〈◯中略〉見まはさせ給ふに、にはの草もいとふかく、殿上のありさまも春宮のおはしますとは見えず、あさましうかたじけなげなり、〈◯中略〉あさがれひのかたにいでさせ給ひて、めしあればまいり給へり、いとちかくこちとおほせられて、ものせらるゝ事もなきに、あないするもはゞかりおほかれど、おとゞにきこゆべき事のあるお、つたへものすべき人のなきに、まぢかきほどなれば、たよりにもと思ひてせうそこし聞えつるなり、そのむねは、かくて侍るこそは本意ある事と思ひ、こいんのしおかせ給へる事おたがへたてまつらむも、かたがたにはゞかり思はぬにあらねど、かくてあるなん思ひつゞくるにつみふかくもおぼゆる、うちの御ゆくすえはいとはるかにものせさせ給ふ、いつともなくてはかなき世にいのちもしりがたし、このありさまのきて心にまかせておこなひおもし、物まうでおもし、やすらかにてなんあらまほしきお、むげにさきの東宮にてあらむは見ぐるしかるべきなん、いんがう給ふて、としに受領などありてなんあらまほしきお、いかなるべき事にかとつたへ聞えられよとおほせられければ、かしこまりてまかでさせ給ひぬ、そのよはふけにければ、つとめてぞ殿にまいらせ給へるに、〈◯中略〉東宮にまいりたりつるかととはせ給へば、よべの御消息くはしく申させ給ふに、さうなりや、おろかにおぼしめさんやは、おしておろしたてまつらむ事はゞかりおぼしめしつるに、かゝる事のいできぬる、御よろこびなほつきせず、まづいみじかりける大宮〈◯上東門院〉の御宿世かなとおぼしめす、民部卿〈◯源俊賢〉に申あはさせ給へば、たゞとく〳〵せさせ給ふべきなり、なにかよき日もとらせ給ふ、すこしものびばおぼしかへして、さらでありなんとあらむおばいかゞはせさせ給はんと申させ給へば、さる事とおぼして、御こよみ御らむずるに、けふもあしき日にもあらざりけり、やがて関白殿〈◯藤原頼通〉もまいらせ給へるほどに、とく〳〵とそゝのかし申させ給ふ、まづいかにも大宮に申てこそはとて、うちにおはしますほどなればまいらせ給ひて、かくなんときかせたてまつらせたまへば、まして女の御心はいかゞはおぼしめされけん、それよりぞ春宮にまいらせ給ふ、かう申事は寛仁元年八月六日の事なり、〈◯中略〉母の宮だにもしらせ給はざりけり、かくこの御方に物さはがしきお、いかなる事ぞとあやしくおぼしてあないし申させ給へど、れいの女房のまいるみちおかためさせ給ひてけり、殿にはとしごろおぼしめしつる事などこまかにきこえんと心づよくおぼしめしつれど、まことになりぬるおりはいかになりぬる事ぞとさすがに御心さはがせ給ひぬ、むかひ聞えさせ給ひては方々におくせられ給ひにけりとや、たゞきのふのおなじさまに中々事ずくなにおほせらるゝ御おりは、さりともいかにかくはおぼしめしよりぬるぞなどやうに申させ給ひけんかしな、御けしきの心ぐるしさおかつは見たてまつらせ給ひて、すこしおしのごはせ給ひて、さらばけふよき日なりとて、院になしたてまつらせ給ひて、やがて事どもはじめさせ給ふ日よろづの事さだめおこなはせ給ふ、判官代には宮づかさども蔵人などかはるべきにあらず、別当には中宮の権大夫おなしたてまつり給へれば、おはしてはいし申させ給ふ事どもさたよりはてぬればいでさせ給ひぬ、いとあはれに侍りける事は、殿のまださふらはせ給ひける時、母宮の御かたより何方の道よりたづねまいりたるにか、あらはに御覧ずるもしらぬけしきにて、いとあやしげなるすがたしたる女房の、わなゝく〳〵いかにかくはせさせ給へるぞと、こえもかはりて申つるなん、あはれにも又おかしうもとこそおほせられけれ、〈◯中略〉ひたき屋、ぢん屋などぞとりやられけるほどにこそえたえずしのびねなく人々侍りけれ、まして皇后宮ほり川の女御殿などは、さばかり心ふかくおはしまさふ御心ともに、いかばかりおぼしめしけんとおぼえ侍りし、〈◯中略〉さていかなる事にか東宮御位せめおろしとりたてまつり給ひては、又御むこにとりたてまつらせ給ふほどもてかしづきたてまつらせ給ふ御ありさま、まことに御心もなぐさませ給ふばかりこそきこえ侍りしか、おものまいらするおりは、大ばんどころにおはしまして、御だいやばんなどまで手づからのごはせ給ふ、なにおもめしこゝろみつゝなんまいらせ給ひける、御ざうしぐちまでもておはしまして、女房にたまはせ、殿上にいだす程にもたちそひてよかるべきさまにおしへなど、これこそは御ほいよとあはれにぞ、〈◯又見栄花物語〉