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水鏡
下仁明
承和九年七月十五日に、嵯峨法皇うせさせ給ひにき、当代の御ちゝにおはします、十七日平城天皇の御子に阿保親王と申し人、嵯峨のおほぎさきの御もとへ、御せうそくおたてまつりて申給ふやう、東宮のたちはきこはみねと申ものまできて、太上法皇すでにうせさせ給ひぬ、世中のみだれいでき侍りなんず、東宮お東国へわたしたてまつらんと申よしおつげ伸給ひしかば、忠仁公〈◯藤原良房〉の中納言と申ておはせしお、后よび申させ給ひて、阿保親王の御ふみおみかどにたてまつり給ひき、この事こはみねと但馬権守橘逸勢とはかれりける事にて、東宮はしり給はざりけり、廿四日に事あらはれて、廿五日に但馬権守お伊豆国へつかはし、こはみねおおきへつかはす、又中納言よしの宰相あきつなどながされにき、〈◯中略〉東宮おそりおぢ給ひて、太子おのがれんと申給ひしかば、みかどこの事はこはみねひとりが思ひたちつることなり、東宮の御あやまりにあらず、とかくおぼすことなかれとて、たゞもとのやうにておはしまさせき、〈◯中略〉八月三日みかど冷泉いんに行幸ありて、すゞませ給ひしに、東宮もやがてまいらせ給ひたりしに、いづかたよりともなくてふみおなげいれたりき、こはみねが東宮おおしへたてまつりたることゞもありしかば、にはかに東宮の宮づかさたちはきおもと人など百余人とらへられて、東宮お淳和院へかへしたてまつりて、四日当代の第一親王お東宮にたて申給き、文徳天皇これにおはします、