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南方紀伝
南朝延元四年北朝暦応二年四月十三日、恒良親王薨逝、〈十五歳〉
◯按ずるに、恒良親王の北国に行啓ありし後、光明天皇は成良親王お太子と定め給ひしかば、恒良親王は自ら廃せられしものにて、神皇正統記後醍醐天皇の条に、八月〈◯建武三年〉に至るまで度々合戦有しかど、官軍すゝまず、依て都には、元弘の時の偽主〈◯光厳〉の御弟に、三の御子豊仁〈◯光明〉と申けるお位につけ奉る、十月の頃にや主上都に出させ給ふ、いとあさましかりし事なれど、また行末おおぼしめす道ありしにこそ、東宮〈◯恒良〉は北国に行啓あり、左衛門督実世卿以下の人々、左中将義貞朝臣おはじめて、さるべき兵もあまたつかうまつりけり、主上おば尊号の儀にてまし〳〵き、御心おやすめ奉んためにや、成良親王お東宮にすえ奉る、と見えたり、