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椿葉記
崇光院は、〈◯中略〉観応二年十一月七日、南朝より取たてまつりて御くらいお廃す、〈◯中略〉同三年閏二月廿日、南朝〈◯後村上〉の天気によりて、両上皇〈◯光厳、光明、〉新院〈◯崇光〉儲皇直仁親王八幡の軍陣に幸しまします、〈◯中略〉さてとう宮〈◯直仁〉は廃せられて、光厳院第二宮〈◯後光厳〉同八月十七日践祚あり、ちゝの御ゆづりにもあらず、ぶしやう〈◯足利尊氏〉のはからひとして申おこなふ、